161:リーマンショックとネットラジオの終了

 

08年8月8日に開幕した中国国内で初めて開催された北京オリンピックを経て中国国内は俺がそれまでに体感した事のないほど大きな盛り上がりを見せていた。

 

オリンピックが終わった後もその冷めやらぬ興奮や加熱振りは至る所で感じる事が出来たが08年9月に起きたある事件を境にその状況は一変する。

 

世界中を金融危機に巻き込んだ俗にいうリーマンショックがきっかけだった。

 

中国も例外なくその影響を受けたのだが拡大する内需の潤いから比較的その規模は小さなもので済んだ。

 

だがそうは言っても全く影響がなかったわけではない。

 

外資系企業や貿易会社などは大きなダメージを受けただろうし、俺自身に状況を置き換えてもレギュラーで出演していたネットラジオ「ねんこまの喋っChina」のスポンサーを一気に失うきっかけになってしまった。

 

企業数社が一気にスポンサー脱退をした事で番組は当然存続の危機にさらされた。

 

ねんど大介さんは何とか番組を継続させようと最後まで新たなスポンサーを探したが結局あのような状況下で新たなスポンサーなど見つかる術もなく、俺達は08年12月。同年2月に起ち上げたばかりのネットラジオを終わらせる事にした。

 

ある意味では上海にやって以来初めて経験する事になった挫折であったろう。

 

それまでは大なり小なり紆余曲折はあったにせよ結果として何とか上手くいくという結末を迎える事に成功していた俺だったが、ようやく手にしたラジオのレギュラーの話を自分たちの意志とは全く別の形で泣く泣く断念せざるを得ない状況に追い込まれてしまったのだ。

 

思えばあの頃から俺の運気は徐々に下がり始めたように思う。

 

中国である程度自分の生活が安定して色々なものに慣れを感じ始めているタイミングでもあったから、もしかしたら心のどこかで向上心を忘れてしまっていたのかもしれない。

 

いずれにせよ09年を目の前にしていたあの時期。

 

俺は人生で最も過酷な1年をその後迎える事になろうとはまだ知る由もなかったのだ。

 

 

 

162:モデルとして活躍の場を広げた時期

 

2008年の後半期に入ると俺には不思議とモデルとしての仕事が増えていく。

 

その一番のきっかけとなったのは08年のGainer11月号の表紙を飾った事だろう。

 

それまでも雑誌にモデルとして出演する機会は何度かあった俺だったが、雑誌の表紙を飾らせてもらえる機会に恵まれた事は一度もなかった。

 

しかも中国の雑誌ではなく普段活動をしていないはずの日本において雑誌の表紙を飾るチャンスを得たわけだから本当に嬉しかったし、あの時の喜びは今でも忘れていない。

 

その後もGainerには日本に帰国した際にモデルとして出演させてもらったり、表紙で起用してもらったり、現在では上海を毎月紹介するコラムを書かせてもらっているなど非常にお世話になっている。

 

Gainer以外でも08年を境にモデルとしての活動をする場に何故か多く恵まれ、アパレル企業のイベントにゲストとして呼ばれたり、神戸コレクションの上海公演や東京公演にゲストモデルとして参加させてもらったり、翌年の09年には同じく神戸コレクション上海公演のイベントMCを務めたりもした。

 

更には09年3月に中国全国で創刊された中国版LEONの専属モデルも一時期務める事になった。

 

俺はモデルではないしそういう自覚も意識もない。

 

プロのモデルさんのように様々なポージングに長けているわけでもなければ、その道の才能があるとも思っていない。

 

でも俺にはどうやら平面媒体に起用されやすい特徴があるようだ。

 

それには当然生まれついての先天的な要素が大きいだろうから親には本当に感謝しなくちゃならないし、運動好きで健康意識の高い性格に導いてくれた人生の様々な出会いにも感謝をしなくてはならないだろう。

 

中国に来てからの俺は不思議なぐらい見えない様々な力に守られ生かされていたような感覚をこういった事からも強く感じてならない。

 

中国での芸能活動は全て手探りで勉強や経験を重ねる事でしか新たな道を自分の足元に照らせなかった。

 

俺の前を歩いている日本人はほとんどいなかったし、俺は誰も歩いた事のない道なき道をいつも手探りで歩いている感覚の中暮らしてきた。

 

その道の途中で芝居の需要を生み出す事が日本人としてどう頑張っても難しいことや、音楽の感性や流行りの違いから感じ始めていた音楽への意欲の低下。

 

そうしてそれまでの人生で経験してきた芝居や音楽から掛け離れた仕事しか選べない状況の俺を様々な人やもの、環境が生かしてくれた。

 

これを偶然ではなく必然と考えるのならば俺は俺を育ててくれた日本という国と俺を救ってくれた中国という国の間で何かを成したいと本気で感じてならないのだ。

 

 

 

 

163:初めての中国映画出演

 

2009年春。

 

ある日突然俺に映画に出演する話が舞い込んできた。

 

Distance Runnerという長距離マラソンを主題にした映画で俺は日本人ランナー役として出演をする事になるのだ。

 

中国本土にやってきて以来初めて手にした映画の話だったし、重要人物の一人として露出度も高い役どころだったからかなりテンションが上がる事になる。

 

映画の撮影地は中国雲南省。

 

今まで行った事のない土地だったし、雲南の風土性や観光地としての評判などはよく耳にしていたから撮影で現地を訪れる前から少し興奮状態だった。

 

そして出演依頼から一週間。

 

突然決まった映画の話は俺を雲南省昆明へと導く事になる。

 

昆明は雲南省隋一の都市だから建物も多く街中は自然などもあまり見かける事のない場所で俺が当初思い浮かべていた大自然が多い街とは少し掛け離れたイメージだった。

 

でも撮影で使われる事になった郊外の景色は山や緑も多く美しい風景が広がる場所もあり、普段住んでいる上海とは明らかに違う街にやってきたのだと感じる事が出来た事は何だかそれだけで新鮮で楽しい経験だった。

 

更に雲南省の特徴として印象的だったのは高原に位置する事から空気が薄くて一日の日照時間が非常に長いという風土性だ。

 

朝6時ぐらいから明るくなり始め、夜は8時ぐらいまで明るい空を見る事が出来た。

 

その為撮影期間中は一日が長くなったような気がして何だか得した気持ちにさせられた毎日を過ごす事になる。

 

食べ物は甘い物を好んで食べる上海とは異なり、酸っぱく辛い料理が多かった。

 

現地の人々は穏やかでゆとりを持って過ごしている感じで、生活テンポの速い上海の人々の持つ雰囲気とは明らかに違う気質を纏っていた。

 

当時は何だか同じ中国なのに全然違う国に来たような感覚さえあったほどだ。

 

映画の撮影が目的で訪れた昆明であったが、俺はこの時の来訪がきっかけで雲南という街を非常に好きになるのだ。

 

 

164:南省での映画体験

 

俺にとって中国本土で初めてとなる映画撮影がついにスタートした。

 

映画には沢山の欧米人たちも参加していたから撮影の現場は中国語だけでなく英語も飛び交っていて俺にとって何だか非常に刺激的な体験となっていく。

 

映画の撮影初日に俺に待っていたシーンは撮影が始まる以前、台本を読んだ段階で俺にとって劇中最も難しいだろうなと感じていたシーンだった。

 

ドラマや映画の撮影ではいきなりクライマックスから撮影したりする事も決して珍しくないのだが、まさか撮影初日からいきなりプレッシャーのかかる重要なシーンが待っているとは・・・。

 

だが考え方を切り替えればこの撮影を上手くこなせれば後の撮影が精神的に大分楽になるだろう。

 

そう考えるようにして俺はとにかく神経を集中してこの日の撮影を全力で挑む事にした。

 

そして撮影が終わった時、現場からは称賛を称える拍手がスタッフ達から送られる事になった。

 

確かに俺自身、あの時の自分の芝居にはある程度満足のいく点数をつける事が出来たと思う。

 

だがクランクアップを迎えたわけでもないのに芝居を終えた後に拍手を現場から送られるなんていう体験は少なくても今まで日本では味わった事がなかった。

 

だから凄く貴重な経験を出来たと思うし、一番難しいと感じていたシーンを拍手をもらうという結果に結び付けられた事で俺はその後の撮影を自信を持って臨める態勢を整える事が出来た。

 

結果としてその後2週間続いた撮影を俺は順調に終える事になっていく。

 

そうして中国で初めて経験する事になった映画撮影は最高の形で締めくくる事になるのだ。

 

「昔はあんなに才能がないと思っていた芝居だったのに今は芝居をしている事が楽しい。これも中国での色々な経験がきっと役に立っているのだろうな。」

 

俺は自分でも知らず知らずのうちに以前よりも少しだけ成長をしている自分にあの時気が付かされたのだ。

 

 

165:雲南省での小旅行

 

映画撮影の為に人生で初めて訪れた中国雲南省。

 

俺自身の撮影をほとんど撮り終えた撮影後半時期、俺に突然4日間の休日が入り込んできた。

 

撮影が行われていた場所は雲南省の昆明という街だったが雲南省はまだまだ広いし行ってみたい街が沢山あった。

 

せっかく4日間の猶予が出来たわけだし俺は雲南をあちこち旅してみようと急きょ計画を立て、翌日の朝から小旅行をする事に決めた。

 

向かった街は昆明からバスで山道を5時間ほど走った場所に位置する大理という街だった。

 

翡翠や大理石の産地としても有名な大理は決して大きな町ではないが沢山の緑や自然に囲まれた素晴らしい場所だった。

 

観光地としても有名な大理古城は非常に雰囲気のある独特の空気を纏った貫禄を感じたし、現地の人も暖かくて食べ物もおいしかった。

 

あの光景や雰囲気はまさに俺が子供の頃、両親に連れられて見て回った桂林の大絶景を思い起こさせたし、上海や北京などの大都市にはない俺が子供の頃に憧れ、抱き続けていた「中国」という国のスケールや言葉にするにはあまりにも陳腐で壮大な存在感を再び認識させる強烈なインパクトがあった。

 

結局あの日は大理を半日観光した後、現地のタクシー運転手に勧めてもらった石造りの古風でオシャレな旅館に泊まる事にし、翌朝は朝早くから再び観光を続け、夕方には大理を経つ事にした。

 

本当はもっとゆっくり観光して回りたかったが幾分時間がない。

 

他にもまだまだ見たい街があったし、俺は次に麗江という大理から更にバスで5時間ほど走った街を目指して移動をした。

 

途中舗装されていない山道を通ったり、常に緑や川に囲まれた大自然の中をバスに揺られていると何だかたったそれだけの事で胸がドキドキしたし、同時に長い間上海という都会に住む事でこういった自然と触れ合ってきていない自分を再確認し、そこにいるだけで癒されている自分を感じていた。

 

噂ではよく耳にしていた有名な麗江。

 

いったいどんな街なんだろう?

 

 

 

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