146: 26°7

 

レコード会社のチーフマネージャーの最後の言葉から始まった俺とチーチーのCDリリース企画。

 

そのリリース日は08年3月14日。ホワイトデーに決まった。

 

中国ではバレンタインデーの認知度は高いがまだまだホワイトデーを男女で過ごすという習慣が大衆的ではない。

 

だが近年中国台湾や日本の影響もあり少しずつではあるがホワイトデーがにわかに中国本土でもその存在感を醸し出し始めているのも事実。

 

そこで男女のユニットでCDをリリースするのだから特別な日にリリースしようという運びになり、08年1月。「小松琦琦」のCDリリース日が決定した。

 

だがあの当時。

 

CDリリース日は決定したもののレコーディングするべき4曲の選曲が決定していなかったほか、それに伴う一切のスケジュールは決定していなかった。

 

以降、当然だがこれらの作業は急ピッチで進められる事となる。

 

まずは選曲を行う作業が行われ、決定した曲から順次レコーディングしていくというやり方が取られた。

 

この時のレコーディングはチーチーにしても俺にしてもかなりの意気込みを持って臨んでいた事もあり非常に順調で良好な状態でこなしていく事が出来る。

 

同時にチーチーと一緒にいる時間が長くなる中で共同作業を繰り返していたわけだから、少しだけ苦手意識のあった彼女とこの頃をはじめとして打ち解け始めていく事になる。

 

当然それはその後の二人の仕事に大きく影響する事になったし、結束力が高まれば高まるほど二人の息は合うようになっていく。

 

そうして1曲。また1曲とレコーディングを積み重ね、春節を迎えようとしている頃には全ての曲をレコーディングし終える事に成功する。

 

こうして出来上がったCDがユニット「小松琦琦」による「26°7」である。

 

「26°7」とは一説によると恋愛に最も適した温度という事らしい。

 

俺達のCDは全てのカップルに向けて発進する恋愛の歌として08年3月14日リリースされる事になる。

 

 

147:CDリリースと記者発表

 

ついに2008年3月14日に俺とチーチーによるユニット「小松琦琦」によるアルバム「26°7」がリリースされた。

 

その日、俺達はある有名なレストランを借り切って記者発表を開く。

 

当日は亡くなったチーフマネージャーが非常に交友関係が広かった事も含め、彼女と交友のあった多くの記者やメディア関係者も訪れてくれた。

 

その翌日には俺とチーチーが日中の男女による国境を越えたユニットである事やCDがホワイトデーにリリースされたという事で様々な角度から記事を載せてくれるメディアを目にする事が出来た。

 

一人の亡くなってしまった人間の願いが乗せられて実現した日本人と中国人によるユニット。

 

こうして俺達は本格的に始動する事となり上海だけでなく杭州や北京にもその後プロモーションを行いに出かけるのだ。

 

中国という国は国土や人口があまりにも大きいから、例えば上海や北京のような大都市で有名であったとしても全国的には無名な芸能人や企業、製品や食品なども沢山ある。

 

その規模から考えても当然この点は日本とは比べものにならないのは容易に想像出来るだろう。

 

だから上海が活動の基盤である俺達にとって上海以外の場所でプロモーションをするという事は非常に重要な活動であるし、それが全ての第一歩であった事は言うまでもない。

 

だがまだまだプロモーション期間中であった08年5月12日。

 

俺達のプロモーション活動はある大きな出来事によって断念せざるを得なくなる。

 

四川大地震が起きたのだ。

 

当然中国中が大パニックになったし報道も何もかもが全て地震一色になってしまった。

 

そんな折、CDのプロモーションなど続けられる術もなく、世の中は救済ムード一色となっていく。

 

結局俺達はその後様々な都市に出掛けてプロモーションを行う予定を全て頓挫させてしまわざるを得ない状況に追い込まれてしまい、そのプロモーションがかろうじて行えたのは上海を除くと北京、杭州だけとなってしまったのだ。

 

無論、5月12日以降は上海での活動も自粛せざるを得なくなり、それ以降俺達のリリースしたアルバムに対してのプロモーションが行われる事はなくなってしまったのだが・・・。

 

 

148:音楽物語In Japan

 

08年ホワイトデーのCDリリースから遡る事3か月。

 

07年12月中旬。俺に1つの新たなチャレンジが訪れた。

 

日本のNHKエンタープライズが制作する日本の音楽情報やエンタメ情報を上海で発信する情報番組「音楽物語In Japan」のパーソナルVJを務めないか?という話が持ち上がったのだ。

 

音楽物語は06年に上海で開始した人気番組で俺も「加油!好男児」のオーディション中にインタビューをしてもらったり、オーディション卒業後もゲストとして出演させてもらっていたという経緯があった。

 

08年から上海で新たに始まるICS(上海外語チャンネル)に番組が移行する事をきっかけに制作側が日本人のMCを探していたところ、俺にその白羽の矢が立ったいうわけだ。

 

当然今まで番組のMCなど務めた事がなかったし最初はどうして良いものか悩んだのだが、生まれて初めて自分の番組を持つ事が出来る事は非常に魅力的だったしレギュラー番組を持つ事で今後の仕事に及ぼす影響を考えたら是非ともチャレンジするべきだと結論が出た。

 

こうして俺は2011年1月までその後続ける事になる音楽物語In JapanのパーソナルVJとして活動を開始するのだ。

 

だが最初の頃の収録の内容は本当にひどいものだった。

 

経験不足と言えばそれまでなのだがとにかく曲や人物を紹介するのも自分を演じるのも下手くそで後日放送されたオンエアを見た時などは顔から火が出るほど自分の姿が惨めで恥ずかしかった。

 

今までは完全に見ている側だったテレビの語り手の仕事がこんなにも難しくて大変な作業だとは全く分かっていなかった。

 

当然その後も試行錯誤しながら収録を重ねていく。

 

だが従来ノロマな亀のように何をするにも時間がかかってしまい飲み込みの遅い俺はこのMCという仕事が板につくようになるまで相当の時間を要してしまう。

 

当然その間様々な人から「喋りが硬いよね。」とか「もっと~したら良いのに!」などと言われてきたし、その都度苦い思いを味わったものだ。

 

当然俺自身がそんな事は常に分かっていたわけで自分のイメージと現実がなかなか埋まらないギャップに長い間苦しむ事になる。

 

だが最初はそんな状況で始めた音楽物語であったが、この出会いがその後の俺の生き方を大きく変えていった事は間違いのない事実だ。

 

単純に番組のMCとしてもっと喋りが上手くなりたいとかいうそんな次元を超えて、俺は番組に関わった全ての人達と共に過ごし、築き上げてきた時間や状況の中で日中友好という目標が一段と大きくなっていく。

 

その後音楽物語を通して触れ合っていくJ-POPファンの中国人達や番組制作に関わる日本人や中国人スタッフ達。

 

そういった人達と音楽や番組を通して交流していく事は俺により大きな夢を抱かせるようになったのだ。

 

音楽物語は中国で間違いなく俺を一番育んでくれた大いなる父であり、今の俺の最大の基礎を作ってくれた仲間なのである。

 

 

 

149:ネットラジオの開始

 

上海には俺の他にもう一人日本人として活躍されている芸能人の方がいる。

 

WAHAHA本舗に所属しているお笑い芸人のねんど大介さんだ。

 

ねんどさんは俺よりも更に1年早く上海に渡り活動を開始していた経歴のある俺の先輩であり、俺が知る限り中国を拠点に活動をしている唯一の日本の芸人さんでもある。

 

当然中国語も話すし上海万博や様々なイベントなどでも活躍をしてきている芸人さんだ。

 

そのねんどさんと俺の出会いは07年夏に上海の花園ホテルで行われた神奈川県人会に遡る。

 

俺はあの当時加油!好男児を卒業したばかりでマネージャーと日系企業を中心に営業活動を精力的に行っていた頃でもあった。

 

あの時期はまだ駐在している日本人に特に認知されていなかったし、一人でも多くの人に「小松拓也」という存在を知ってもらいたい状況だった。

 

営業活動をしている中で上海に神奈川県人会という神奈川県にゆかりのある方々の集まりがあるという事を知り、神奈川県が地元の俺にとってみんなに俺を知ってもらうには良いチャンスかもしれないと思い集まりに参加をさせてもらったのがねんどさんと俺の最初の出会いとなる。

 

あの日ねんどさんは県人会のゲストとして呼ばれていて大勢の人の前で芸を披露していた。

 

俺は自分以外にも日本人として上海で頑張っている芸能人の方がいる事を初めて知る事になったし、ねんどさんに挨拶をさせてもらう事になる。

 

そうして後日、ねんどさんが主宰するライブにもゲストで参加をさせてもらう事があの場で決まるなど俺達は急速に交流を深めていく事になるのだ。

 

その後も仕事やプライベートの付き合いを重ねるごとに俺とねんどさんの仲は少しずつ深まっていったし、お互い上海では数少ない同業者という事で話も合った。

 

だからねんどさんがこれから始めようとしているインターネットラジオで一緒にパーソナリティをしないか?と誘ってきてくれた時は本当に嬉しかった。

 

ネットラジオとは言え俺にとってラジオのパーソナリティは興味のある仕事だったし、日本の人に向けて中国の様々な情報を発信出来るのならばそれはそれで面白いかもしれないと思えた。

 

そうして08年2月末。

 

俺はねんどさんと共にインターネットラジオ「ねんこまの喋っChina!」をスタートさせる事になる。

 

俺にとって人生で初めて抱えたラジオの仕事だ。

 

 

150:ねんこまの喋っChina!

 

上海で芸能の先輩として活動していたねんど大介さんとの交流の中で生まれた新しい企画、ネットラジオ。

 

俺達は自分たちの番組を「ねんこまの喋っChina!」と命名する事にした。

 

番組スポンサーは全てねんどさんが自分の足で日系企業さんを回って探してきてくれた。

 

自分でスポンサーを何社も見つけてしまうなんて凄いなと感心したし、ねんどさんのあまりにも逞しい生命力にも似た行動力は何だか上海という経済の競争が激しい街の中では本来誰もが必要な精神であるように思え、あの姿には憧れさえ抱いた。

 

当時の俺とねんどさんを比べた時、1つだけ決定的に違っていたものがあるとすればまさにこういった点だろう。

 

俺にはあの頃日本の事務所から同行していた上海人マネージャーがいたし、上海側にも所属事務所があったから芸能における一切の営業は会社が行ってくれたし自分自身で営業したり売り込んだりするような事は一切行わなかった。

 

だからこそねんどさんの自分自身で道を切り開いているあの姿勢や精神は頑強で眩しく見えたし、中国で活動する上では大なり小なり例えタレントという立場であっても学んでいかなければならない姿勢なのではないか?と感じさせられた。

 

中国人は一般的に皆自己主張が強いし自分をより良く相手に評価してもらおうという姿勢が日本人よりも強い。

 

確実に言えるのは中国人と付き合っていると日本人ほど遠慮したり譲り合ったりする場面に直面するより、我先にと前へ前へ出ていこうとする場面に直面する機会の方が圧倒的に多いのだ。

 

当然タレントという立場で前へ出ようと考えた場合その匙加減は非常に重要なのだが、だがそれでも中国では日本にいる頃と考えや行動が同じでは駄目だろうし、ある程度の事はむしろ自分自身で管理出来るぐらいのスキルがある方が結果仕事に結びついたり得をするケースが多い。

 

これは俺が中国生活を経過していく中で実体験として感じてきた1つの考えだ。

 

ねんどさんにはそれが備わっていたし当時の俺には圧倒的にそれが足りなかった。

 

中国という国で仕事を上手くやっていきたいのならば俺の行動も考えもある程度は中国スタンダードに切り替えていかなければならなかったのだろうが、俺は自分の当時の環境が良すぎて自分では中国を分かったような気持ちになりながらもねんどさんのようには生きていなかったように思う。

 

だからこそそんな俺をも支えてくれた当時のファンやスタッフ、仕事や環境には感謝してもしきれない。

 

俺は自分に中国で生きる生命力が備わっていなかったのに周りの多くの人や環境や偶然などにも助けられ、あまり大きな不自由などしない中で自分を育み、磨く事が出来たのだ。

 

今振り返ると俺は本当にラッキーな人間である。

 

 

 

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