46:PV出演の反響

 

永邦の「威尼斯的泪」という曲のPV撮影を終え1か月も経つとそのPV映像がテレビやカラオケなどあちこちで流れるようになった。

台湾では音楽チャンネルなども多数ある為テレビをつけていれば至るところで音楽PVを見る事が出来るしカラオケなどで流れる映像もアーティスト本人のPV映像がそのまま流されている。

 

日本と比べアーティストPV映像を必然的に目にする機会が多い環境だし、またその効果も絶大だ。

俺が出演したPVは曲自体がパワーを持った良い曲でその楽曲自体に対する反響や人気も高かったし注目度も高かったから自然と「あのPVに出ている男性は誰だ?」というような声をあちこちで聞くようになった。

その頃から台北の街を歩いていても知らない人に指を指されて「あの人もしかしてあのPVに出てる人じゃない?」などという反応をチラホラ目にするようになっていく。

こういった反響はまだCDデビュー前の俺にとって大きな希望を抱くには十分過ぎるほどの非常に良い材料だったし素直に嬉しかった。

PVに出るだけでこれほどの効果が得られるなど想像もしていなかったから俺にとっては嬉しい誤算だったし、まだそのほとんどの収録を終えていないレコーディングを苦しくても引き続き頑張ろうと思うには十分なカンフル剤となった。

そしてちょうど時を同じくして俺よりも早く台湾でアーティスト活動を行っていた大親友のジミーや太陽とシスコムーンの元メンバーで当時台湾に環境を移して活動していたRURUと再会を果たす事になる。

彼らは当時すでに台湾のスターの仲間入りをしていたし、こういった仲間との再会も俺にとっては非常に強い励みとなっていく。

 

 

47:ジミーとの再会

 

台湾という場所は総面積を合わせても日本の九州よりも小さく人口も2000万人ほどの場所だ。

そんな街だから情報が行き交うのは非常に早いし人と人同士の繋がりも同じ業界、業態ならばほぼ確実に自分の知り合いの誰かが違う誰かと接点があったりした。

 

俺がまだ台湾に渡ったばかりの頃そんなひょんな繋がりで日本で仲良かったRURUと再会する。

 

日本で太陽とシスコムーンのメンバーとして活躍した彼女はグループ解散後、俺より先駆けること2年ほど前に音楽活動の場を日本から台湾へシフトしていた。

 

俺にとって台湾は以前住んだ事がある街だったが逃げるように留学時代を終えた俺にとって必ずしも良いイメージばかりではなく、不安や心配も多々あった。

 

そんな中でRURUとの再会は非常に嬉しい出来事だったし、それは次第に安心感へと変わっていく。

 

台湾芸能会において俺の先輩としてすでに実績を出していた彼女から紹介してもらえる新たな人脈や教えてもらえる様々なことは俺にとって本当にプラスになったし、CDデビューを控えていた俺にとってこうして応援してくれる人の存在は本当に貴重だった。

更に嬉しい出来事は続く。

 

同じく台湾でTensionというコーラスグループのメンバーとしてビッグアーティストになっていた親友のジミーが彼の当時のホームタウンであるアメリカからアルバムリリース準備に向け台湾へ戻ってきたのだ。

 

その日以来俺とジミーは昔日本で毎日一緒に過ごした頃のようにお互い仕事以外で会える時間はちょくちょく会うようになっていった。

 

それにジミーは日本を離れて以来色んな勉強を積み重ねたようで再会した頃にはパソコンや音響機器を使って自分自身で作曲だけでなくアレンジも出来るようになっていた。

 

同じ時期に始めたギターもめちゃくちゃ上手くなっていたし、当時は全く引けなかったキーボードまで扱うようになっていた。

 

以前よりも更にパワーアップしてたくましくなった彼と一緒に過ごす時間は吸収出来る事や収穫が多い密度の濃い毎日へと変わっていく。

 

何より彼の存在は台湾という新天地で再び活動し出したばかりの俺にとって本当に大きな心の拠り所になっていく。

 

 

48:PV撮影は日本でだった

 

02年の年末に入り俺は全10曲の中国語楽曲を全てレコーディングし終えた。

 

そしてレコーディングを終えるとCDリリースに向けて今度はPV撮影を行う事になった。

 

レコーディングし終えた曲の中からどの曲のPVを撮影し、どういった内容で撮影するか?

 

そんな内容を話し合うミーティングを何度か繰り返した後、全てのプランが確定した。

 

アルバムのタイトルは一万個為什摩(同タイトル楽曲をアルバムには収録している)。

 

そのPV撮影は俺の故郷である日本の横浜で行う事が決定した。

 

レコーディング期間中の4ヶ月間かなりの神経を擦り減らしながら過ごしてきていた事もあり日本にこんな形で帰れる事になったのは本当に嬉しい出来事だった。

 

しかも当時付き合っていた彼女とは遠距離恋愛中だった事もありまさかこんな意外な形で彼女に会える事になるとは想像もしていなかったしこの朗報を俺は心から喜んだ。

 

日本へ帰ってPVを撮影する事になったのは02年の12月。

 

俺は8月から始まった台湾の生活の中で無理矢理に考えないようにしようとして気持ちをふさぎ込みながら過ごしてきた日本への様々な思いを抱えて再び日本の地を踏んだ。

 

 

49:彼女との再会

 

02年12月。

 

台湾でのレコーディングを全て終えた俺はPV撮影の為に日本へ戻ってきた。

 

あの時何より嬉しかったのは遠距離恋愛をして離れ離れになっていた当時の恋人との再会だった。

 

彼女に会えない日々は寂しい毎日だった事に代わりはなかったが毎日仕事やスケジュールに追われて過ごしていた俺はまだマシだったかもしれない。

 

彼女の方は当時大学生だったし周りの友達は皆身近の会える距離に恋人がいたわけだからきっと彼女はそんな友達と一緒に過ごしている時間の中からも寂しさや時には辛い思いも感じていたのではないだろうか?

 

彼女との再会は離れている間常に彼女を気掛かりにしていた俺にとって本当に大きな出来事だったし嬉しい事だった。

 

何より俺の夢を支えて応援してくれた彼女の献身的な姿勢に感謝し励まされていた俺だったから彼女との再会は異国の地で溜め続けてきたプレッシャーからの解放を心から感じる瞬間でもあった。

 

彼女に実際会う前は彼女に会ったらどんな話をしよう?

 

どんな風に過ごそう?などと考えていた俺だったけど実際に久々の再会を果たす瞬間に直面すると逆に緊張してしまいほとんど身のない話しか出来なかった事をよく覚えている。

 

あの頃の俺にとって彼女の存在は本当に大きかったんだよなぁ…。

 

帰国初日は台湾からの移動だけだったから特に仕事などのスケジュールはなかったし、翌日からのPV撮影に向けてミーティングをスタッフとし終えると後はゆっくり彼女との時間を過ごす事が出来た。

 

実はこれらのPV撮影の企画や提案をして俺を喜ばせようとお膳立てしてくれたのはマネージャーのケニーだった。

 

彼はメンタル面も含めて本当に俺をいつも気遣ってくれた。

 

デビューを直前に控えた俺のモチベーションを引き上げる為に演出してくれた日本への帰国やそこでのPV撮影なども最初から俺の為に企画してくれていたようだ。

 

日本を離れて再び日本へ戻った時、俺は改めて沢山の人に支えられている事実に感謝している自分に気がついたのだ。

 

 

50:横浜でのPV撮影

 

日本へ帰国した翌日。

 

ついに俺にとって人生初となるCDリリースに向けたPV撮影が行われる事になった。

 

撮影場所は都内の一部と俺の故郷である横浜の二カ所。

 

初日は午前中のまだ日が昇らないうちから都内で撮影が始まり新宿や代々木公園でのロケが行われた。

 

そして翌日は場所を横浜の中華街や大桟橋に移してのロケとなった。

 

永邦というアーティストのPVに出演した際はストーリー性のあるドラマ仕立てのPV内容だったのに比べ、自分自身の曲を撮影したPVはあくまで俺個人が歌ったり歩いたりするシーンを撮るようなアーティストという視点にフォーカスを当てた内容だった。

 

正直あまりライブ経験のなかった俺にはどう表現したらより様になるか?少しでも格好良く映るか?など圧倒的にパフォーマンスの経験が不足していたし、そんな自分に自信がなかったりしていまいち思いきった表現が出来なかったのだが時間の限られた現場ではそんな事に気を配りながらカメラを回している余裕など全てのスタッフになかった。

 

結果出来上がったPVもどこか抜け切らない中途半端な仕上がりになってしまったのだがそれが実感として分かるのはもう少し時間が経ってからの話である。

 

俺は自分にとって初めての経験となるPV撮影に追われるその事実だけでいっぱいいっぱいになってしまって気が付いたら日本での撮影の全ての行程を終えていた。

 

PV撮影の為に一時帰国した日本はこうして本当にあっという間に過ぎてしまい俺は本格的なCDリリースの為に台湾へまた戻る事になる。

 

ただ日本を再び離れるのは苦ではなかった。

 

03年の1月にCDリリースが本格的に決定したからだ。

 

 

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