56:ローカルサイトで2位
台湾でのCDリリースにおける一連のプロモーションは約3ヶ月続いた。
その間テレビやラジオに何度も出演したり雑誌や新聞にも載った。
サイン会で台湾各地を回ったり学園祭にも参加して大勢の学生を前に歌う事もあった。
更には香港やシンガポールへも渡ってプロモーションを行い現地メディアにも出演をするなどその活動は更に幅を広げて行われたのだ。
そうした活動を経てプロモーションが終わりに差し掛かる頃には台湾ローカルのあるインターネットサイトで03年度注目の新人第二位にも選ばれた。
CDは人口2千万人前後の台湾という場所で総計2万枚の売り上げを記録。
信じ難い事実だが俺にとって人生最大の成功といって良いだろう。
俺は小さなブレイクを台湾で果たせたわけだ。
マネージャーのケニーは当然次の展開の為に俺を台湾に引き留め仕事をさせようとしてきた。
彼は今度は台湾のドラマに俺を出演させようと考えたのだ。
だが俺は乗り気じゃなかった。
正直一度日本に帰ってゆっくりしたい気持ちが強かった。
理屈で考えるならば台湾に残って仕事を続けた方が良い。
でも俺が選択したのは日本へ帰国する道だった。
57:人生の分岐点で選択した失敗
03年3月。
台湾でのCDリリースにおける全てのプロモーションを終えた俺には当時二つの選択肢が待っていた。
一連のプロモーションの成果で認知され始めた知名度をもって引き続き台湾に残り中国大陸や香港、シンガポールなどアジア中華圏で活動するか?
それとも日本に帰って芸能活動をまたやり直すか?だった。
冷静な判断を持つ大半の人ならば前者を選択して台湾での活動を持続させる事だろう。
エンターテイメントの世界において台湾のマーケットは台湾のみならず中国本土や香港、シンガポールやマレーシア、インドネシアなどあちこちのエリアで影響力を持つし、そのエンタメの情報発信の多くは台湾からだという特殊性を備えている。
つまり台湾で活動するという事はマーケットをアジア単位で考える事が出来、そこから生み出せる可能性というのは日本国内での影響力よりも遥かに多くの人々、国を相手に活動が出来る事を意味するのだ。
しかも芸能であれ商売であれ、勉強やスポーツであれどんな事でも基礎というのは非常に大事である。
俺の場合台湾で小さなブレイクを果たしたとはいえそれはたったの3ヶ月しか活動をしていない中での小さな小さなブレイクであったわけで本当に大事だったのはその後の活動により地を固める事だった。
そうでなければたった数ヶ月しか活動していない小さな足場などすぐに崩れ去ってしまうのは誰の目にも明白だった。
だがそれでも俺は日本に帰りたかった。
正直仕事をそこまで重視していなかったし当時の俺は考え方があまりに浅はかで世間知らずだったんだろう。
58:日本への帰国と短い栄光時代の終焉
CDを2万枚売り上げ小さな旋風を起こす事の出来た台湾でのアーティスト活動。
マネージャーのケニーがCDリリースに引き続いてのプロモーションとしてドラマ出演を強く促したにも関わらず俺は日本へ帰る事を決意した。
半年以上に渡った台湾での海外生活に少し疲れを感じホームシック気味になっていたのも理由の一つだ。
でも何より遠距離恋愛をしていた彼女の側に帰りたかった。
更には台湾での活躍を持ってすれば日本に帰ってもブレイク出来るのではないか?という甘えた考えがあったのも事実だろう。
あの時の俺はあらゆる事に関して考えが甘かったし自分の夢よりも今という現実が何より大事だったのだろう。
当然当人はそんな意識は全くなかったのだが結果的に当時の俺が選択した結論というのは夢の実現よりも目の前の幸せだったという事だ。
そうして俺は日本へ帰国し家族や彼女の待つ居心地の良い場所へ戻った。
あの時はあの選択が正解だと信じて疑わなかったし目の前の幸せを噛み締めて喜びさえ感じていた。
でもだとしたら俺は何故元々苦労してまで台湾へ渡ったのだろう?
台湾での一連の努力は何の為だったのだろう?
それはやはり夢を実現したかったからではないのか?
なのに俺が最後に出した答えは現実という目の前に広がる幸せだった。
俺は夢を叶えるという目的を果たす為に必要な努力や労力というものをあまりに甘く考えた挙げ句、滅多に訪れるものでもない最高のチャンスを自らみすみす逃してしまったわけだ。
でも現実を選んだ後に残ったものはお金も仕事もない売れない役者という過去の自分だった。
あの経験があったから今の俺は誰よりも知っている事が一つだけある。
売れるやつには売れる理由が必ずあり、売れないやつには必ず売れない理由があると。
その原因や理由を作り出しているのは前者にせよ後者にせよ他でもない自分自身なのだ。
59:日本でのつかの間の幸せ
台湾から日本に戻るとしばらくは暇な日々が続いた。
台湾で小遣い程度に稼いだお金もあったししばらくは金銭的に困る事もなかったから仕事がなくても気持ちに焦りはなかった。
家族や友人、彼女の側にいて慣れ親しんだ日本という場所で過ごす毎日は平穏で至って居心地が良かった。
「あぁ。俺は一生こうして平凡で生きれたらいい。欲なんか言わないし何気ないこんなのどかな日々が延々と続けばいい。」
あの頃は本気でそう思っていた。
ただ人間というのは実は平凡に生きようと願う事すら本来簡単な事ではない。
平凡で生きたいと願いながら現実をもがき苦しんで生きている人間が一体どれだけいるだろう?
その事を俺自身も次第に実感していく事になる。
貯蓄が残金僅かになり出すと仕事が欲しくなりだしたのだ。
でも仕事が欲しいと思ったからと言って簡単に仕事が入るほど芸能界は甘くなかった。
仕事がなければ収入はない。
収入がなければ生活が出来ない。
生活が出来なければ平凡になど生きる事が出来ない。
台湾でのニュースを持ち帰って日本で営業すれば何かしら仕事に繋がるはずだ。
そう思っていた浅はかな考えが現実に打ち破られ俺は次第に焦りを感じ始める。
「また台湾で活動する以前の売れない役者の状態に戻ってしまった…。もしかしてこの先も俺はずっとこのままなのか?」
60:昼ドラ桜咲くまで
お金の心配が頭をかすめ始めたちょうどその頃。
ある昼ドラのオーディションの話が俺の下に入り込んできた。
「桜咲くまで」という家族の物語を描いた作品のオーディションだった。
俺が受けたのは一家の長男役で東大出身のエリートなのだが社会に出た後挫折をして引きこもりになってしまったという役柄だった。
父親役を渡辺裕之さん。
母親役を市毛良枝さんが演じる事が決まっていたし、決まれば俺にとっても本当に大きな話。
当然大きな覚悟でオーディションに臨んだ。
オーディション会場には多くの参加者達が集まっていて格好いいヤツも雰囲気あるヤツも大勢いた。
過去にも何度となく経験してきたオーディションだったが俺にはオーディションを勝ち上がったという経歴がほとんどなかったし、桜咲くまでのオーディションでは周りの参加者達がみんな強大に映ったし凄い役者ばかりに見えた。
ただ俺も負けたくなかったし必死で自分を見失わないように精神統一をし、俺がこの中で1番なんだと強く自分に念じて聞かせた。
参加者は10人1組で監督や演出家達が待つオーディションルームに呼び込まれ自己紹介をそれぞれ簡単に済ませると元々手渡されていた短い台本に従って演技を披露しなければならなかった。
そうして俺の出番がやって来て芝居を披露する順番になった。
周りの役者の芝居を一通り見てきてあまり誰が演技しても大差がないなと心の中で感じていた俺はわざと開き直って大袈裟に芝居をしてみせた。
人と同じ事をやっていても印象に残らない。
良いか悪いかは別としてまずは自分という人間をアピールしなくては!
夢中だったから細かい事はよく覚えていない。
でもあっという間にオーディションが過ぎてしまった事だけははっきり覚えている。
数日後に結果の知らせが入ると伝えられその日は帰る事になった。
自信があるかと言われれば正直よく分からなかった。でも少なくても俺と一緒にオーディションを受けた10人の中では一番目立てたような気がする。
とにかく俺はそれから数日結果が出るのを待つしかなかった。
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