156:杭州でのドラマ撮影

 

中国本土にやって来て初めて芝居をする機会に恵まれたのは08年3月末の事だった。

 

当時俺とチーチーはユニット「小松琦琦」としてアルバム「26°7」をリリースしたばかりでその関連のプロモーション活動を行っていた。

 

俺達のアルバムが恋愛をテーマにしたCDとなっていた事から当時ちょうど浙江テレビが企画している1つのミニドラマとイメージが重なるという事で俺とチーチーが見事その主演を務める事になったのだ。

 

少しコメディタッチのラブストーリーで30分のミニドラマとして浙江テレビで放送される事になったこのドラマの撮影はある日突然決まった上に、直後すぐに撮影が始まった事もあり、中国語のセリフを覚えるのに俺は本当に骨を折った。

 

渡された台本の中に含まれている中国語のセリフの数はかなりのものだったが俺はそれを一日で覚えなければならない事になる。

 

加油!好男児の頃からこういった突然のハプニングにはもう大分慣れっこになっていたが、さすがにあの時はかなりしんどい思いをした。

 

撮影は3日間行われ、毎日朝から晩まで撮影は続いた。

 

俺にとって久々の芝居の現場となったあのミニドラマは良くも悪くも俺に色々なものを思い起こさせてくれた。

 

芝居の感覚、芝居の難しさや楽しさ。

 

反省も新たな発見も喜びも一度に沢山の収穫のあった3日間はあっという間に過ぎていってしまった。

 

中国のドラマの撮影現場は非常にリラックスした良い雰囲気で改めて日本の緊張感の張り詰めた撮影現場とは異なるなと感じたのも大きい収穫だったし、逆に日本の現場のように皆がテキパキと行動して時間を大事に使う効率性を重視するやり方に比べると無駄が多い計画性に欠けた行き当たりばったりに近い臨機応変な撮影スタイルだなとも感じた。

 

国や環境が変われば様々な事に大なり小なり差異が生まれる。

 

中国と日本のテレビやイベント、ドラマや映画の撮影現場はほとんどの場合でその仕事の効率性や処理の仕方。仕事に対しての意識やモチベーション、スタッフ同士のコミュニケーションの取り方などに大きな考え方、意識の開きがある。

 

今まで幾度となく日本人と中国人で一緒にイベント作りや番組作りをする現場に携わってきたが、必ずと言ってよいほどトラブルや問題が発生してきた。

 

こういった経験の1つ1つが俺自身にとっても非常に貴重な体験だった事は間違いない。

 

こうやってお互いの国同士のスタッフや案件を現場で直接交流させる事なくしてその大きな溝は埋まるわけがないのではないか?

 

少なくても俺にとってこれらの経験値は小松拓也というポストが現在に至るまで上海で変わらずに在り続けられる1つの大きな要素だと思っている。

 

俺には大きな特技はないかもしれないが中国芸能界において第一人者の日本人である事は間違いないだろうし、その中で唯一無二の需要を今も生み続けられるのだ。

 

 

 

157:嫌いになり始めた音楽の仕事

 

2008年。

 

CDデビューや数社からのイメージキャラクターの起用。その他ミニドラマへの主演も果たす事が出来た。

 

仕事自体を見れば非常に順風満帆だったろうし、少なくても俺は20代のバイトをしなければ生きていけないタレント生活からは抜け出し本業のタレント業だけをしながら生きていく事が出来るようになっていた。

 

だが同時にあの頃の俺は音楽への情熱が完全に冷めていた。

 

加油!好男児のオーディション中、人前で幾度となく歌詞やメロディすらうろ覚えの中、不完全な状態でテレビや人前で歌を披露した事がある種トラウマのようになっていた。

 

加油!好男児に出演しなければ俺のその後の上海での芸能活動はあり得ないものだったろう。

 

それに自分の芸能人生の最後を賭ける覚悟で挑んだオーディションだ。

 

あの頃の俺にとって最も大切だったのはとにかくオーディションに勝ち続けて少しでも自分のアピールを出来るチャンスを作る事だった。

 

だからオーディション中はそもそも俺には例えそれが全く知らない歌であっても、とにかく限られた時間の中で覚えて歌う事しか選択肢がない状況だった。

 

オーディションに勝てば勝つほどその行為を惨めに感じる瞬間に多く直面したし、限られた中で一生懸命にやったと自分に言い聞かせたとしてもその行為を俺は最後まで肯定する事が出来ずにいた。

 

その後リリースしたCDにおいても中国マーケットに合わせた作品作りやその他コミュニケーションなどのすれ違いから自分の意図とは違う作品をリリースしてしまった事も音楽嫌いを助長させる大きな原因となった。

 

イベントの仕事の現場ではよく歌を歌う機会に恵まれたがそこでも自分が好きではない歌を歌う機会が非常に多く、俺は大きな葛藤を抱えながら過ごすようになってしまう。

 

仕事の露出機会は減らしたくないし、かと言ってやりたくもない仕事を受けるのも精神的に苦痛だ。

 

もう以前のような売れないタレント時代には戻りたくないし、かと言って自分に嘘をつきながら不満を抱えた仕事を続けるのも嫌だった。

 

こんな状況を中国にやってきてから1年も続けていた08年。

 

俺はある日、歌を人前で歌う事自体がまるで工場の流れ作業のようにこなしてしまっている機械的な自分に気が付いた。

 

「あんなに好きだった歌が今は自分の中でこんなにも無機質なものになってしまっているなんて・・・」

 

俺は生きる為、生活の為とは言え歌を歌う仕事を意図的にあの時期から減らし始める。

 

歌を歌う事が嫌いになってしまった自分が歌を通して人に伝えられるものなんて何もない事を俺自身が一番理解していたからだ。

 

俺は仕事を得られるようになった一方で自分の中で大切にしてきた何かを失くしていく消失感にさいなまされる事になったのだ。

 

 

 

158:俺は芸能という仕事に向いていないのではないか?

 

もともと俺は伝えたい想いや気持ちがあって歌を歌っているタイプの人間だった。

 

だから無機質に商業的に歌を歌う機会の多くなっていた中国での様々な仕事の現場から段々と距離を置くようになっていった。

 

だがそれは何も音楽に限った事ではなかった。

 

俺はタレントだとしても本来歌を歌う事と芝居をする事にしか基本的に興味がないし、それ以外の仕事は極力仕事の内容を選んで出演していたかった。

 

だが中国でのマーケットに俺の望むそんな需要はなかなか作り出せずにいたのも事実だ。

 

芝居の機会はそもそも外国人役のドラマや映画の絶対数が圧倒的に少ない為、必然的に日本人の俺は仕事に恵まれずにいたし、音楽も感性のズレやあまりに商業的である事。

 

それ以前に自分が好きな音楽というものを演じる機会がほとんどなかったことから、音楽そのものを続ける気力を失っていた。

 

それに加えて中国と日本の芸能ではあまりに様々な違いがある。

 

例えば中国の芸能人の場合、最も多いのが万能型のタレントである。

 

歌は上手くて当たり前、芝居も出来て当たり前。喋りは面白くて当たり前。ダンスなども出来るのが基本。

 

人によっては外国語を何か国語も使いこなす人も決して珍しくないし、京劇のような伝統芸能をかじった事があるなんて人もいたりする。

 

例え歌手や俳優であったとしても、歌や芝居プラスアルファが求められるのだ。

 

まるで中華料理のメニューが必ずどの中華料理店でも豊富に用意されている事と同じ価値観だろう。

 

日本のようにラーメン屋なら基本ラーメンだけで勝負。

 

俳優や歌手なら基本は専門に特化したその分野で勝負。

 

こういった日本の感覚とはズレがあるのが中国という国だ。

 

だから中国の芸能人は往々として万能型のタイプが多いし、メディアや市場もそういったタイプのタレントの需要がどうしても多い現場を作り出しているのも間違いないだろう。

 

中国という国で芸能を続けたいのならばやはり俺は中国のやり方やマーケットの上で生きていける考えや技能を身に付けない限り、その中で生存していく事は出来そうもなかった。

 

だがそれまでの人生で歌と芝居しか経験した事のなかった俺にとってはほとんどの仕事が中国で初めて体験する初挑戦の仕事ばかりになったし、そのどれもに自信を持てずにいた。

 

「俺は本当は芸能界に向いてないんじゃないだろうか・・・?」

 

皮肉にも最も仕事量の多かった08年当時。

 

俺は毎日そう自問自答しながらその答えも見つける事が出来ず、現実に流されるように生きていたのだ。

 

 

159:俺を精神的に支えた音楽物語

 

人間とは本当に我がままで贅沢な生き物である。

 

俺は売れずに役者を続けていた時代、あんなにも芸能の仕事だけで食べていけるようになればいいと望んでいたにも関わらず、上海でその生活が手に入り出すと今度はやりたい仕事が出来ない事に対して悩むようになった。

 

そしてやりたくもない仕事を続ける事でしか生きる需要を見出せずにいた当時、俺は毎日もがくように苦しんでいた。

 

「俺は一体何者なんだろう???」

 

万能型である事が求められる中国の芸能界において俺は明らかに不器用で多くをこなす事の出来ない落ちこぼれであったはずだ。

 

加えてバラエティ番組などに出ても中国語でそんなに沢山のボキャブラリー自体を持ち合わせていなかったから面白い事の1つもほとんど言えなかったし、元々性格的にもバラエティには向いていなかっただろう。

 

自分の苦手で駄目な一面ばかりを露出する機会が仕事量が増えれば増えるほど増加していって、俺は何だか自分が惨めで取り柄のない駄目なヤツだと思わずにはいられなかった。

 

そんな時、俺の心の拠り所となった一番の支えは間違いなく音楽物語In Japanだろう。

 

番組のMCという不慣れな仕事に相変わらず戸惑いを感じながらも音楽物語という仕事に対して向かった気持ちだけは他のどの仕事へ向けた情熱よりも強かったからだ。

 

日本の音楽やファッション、文化などを紹介する音楽物語はそのテーマ自体がまさに俺が中国で生活する上で現地の中国人たちへ伝えたい想いとリンクしていた。

 

バラエティに出たり商業イベントに出席してその場を取り繕う仕事は俺にとって不得手であったばかりかどうしても排他的に感じ、情熱を持つ事が出来なかった。

 

だが日本の良い音楽や流行、文化を紹介するという仕事はまさに俺が中国で一番取り組みたい内容だったし、情熱をかけてやりたい仕事を他に見つけられない中、最大限の情熱を注いで頑張ろう!と思うには十分過ぎるほど魅力的だった。

 

だからかもしれない。

 

あの当時を境に少しずつ俺を呼称する中国人の表現が「加油!好男児に出ていた小松拓也だよ。」という表現から、「テレビのMCをやっている小松拓也だよ」という具合に変わっていき始めたのだ。

 

 

160:司会の仕事の依頼とその増加

 

音楽物語のMCを始めるようになって少しずつ俺の仕事の内容にも変化が現れるようになった。

 

イベントなどで司会をしてくれという依頼が入るようになったのだ。

 

そもそも俺は司会者ではないし、そんな俺に対して司会の依頼をしてくるなんて大丈夫かな?などと最初は思っていたのだが、やがてその割合は増加していく事になる。

 

当時の俺は司会だけじゃなく、中国で経験するそのほとんどが新鮮な体験ばかりでいつも仕事をしながら同時に勉強をしているといった状態だった。

 

だからその分自分に自信がないながらも何をするにも必死で一生懸命だったし、いつだって焦りや緊迫感を感じていた。

 

音楽物語のMCを務める事は同時にイベントの司会という仕事に結び付くきかっけとなっていたと思うし、司会で求められるスキルは中国語と日本語の2か国語による司会進行だった。

 

当然語学だけでなく司会者には現場の急な変更や突然のハプニングなどに対応する能力のほか、会場の来場者や空間全てを掌握するような司会者としての根本的な能力が必要だ。

 

俺には完全にそういったものが欠如していた。

 

なのにそれでも俺には司会という仕事が需要としてあった。

 

それは非常にありがたい事だったし、俺は下手で覚束ないながらも現場を何度も経験する事で少しずつ自分のスタイルを形成していく猶予をもらえたのだ。

 

今思えば中国での俺の体験は本当に不思議な事だらけだ。

 

司会にせよ他のどの仕事にせよ、少しだけ背伸びをして頑張りさえすれば何とかなる仕事が俺には不思議と順序良く入り込んでくれたし、その全てが俺を育んでくれた。

 

まるで勉強をしながら生活費まで稼がせてもらって周りの全ての人や物に生かされているような感覚だった。

 

もし俺自身がテレビやイベントのプロデューサーであったなら、たぶん当時の小松拓也を起用しなかったんじゃないだろうか?

 

自分でもそう思うほど俺は未熟であったにも関わらず、周りの人や環境、俺を取り巻く全てのものが俺を生かす事を許してくれた。

 

そうして俺は今も上海で生きている。

 

中国という大地や中国人、そしてここで関わった多くの日本人や多くの人々。

 

その全てが俺の先生であり俺の恩人であり、俺の感謝の対象なのだ。

 

 

 

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