51:今度は台湾に戻ってPV撮影だった

台湾に戻ると日本で撮った3曲のPVとは別にもう1曲新たにPVを追加して撮影する事になった。

 

このPVはあの時リリースしたアルバムの中で俺が一番思い入れのあった曲「不知道方向」の撮影だった。

 

撮影場所に選ばれたのは台北の海岸付近だったからいくら台湾が南国といっても真冬の海は風も強くて非常に寒かった。

 

しかもその中を薄手のシャツ1枚だけ羽織って海に入るシーンなども撮ったから長時間に渡る撮影は体力的に非常に厳しくこのPV撮影にかけた労力は日本で行われたPV撮影とは比べものにならなかったのだ。

 

そうして苦労して撮ったPVは撮影後間もなくすぐに台湾の各テレビで見る事が出来るようになった。

 

正式にデビューしてCDが店頭に並び出す2週間ほど前からあちこちの音楽番組などでこれらのPVが流れ出したのだ。

 

自分の歌った歌が映像と一緒にテレビで流れている光景は何だか奇妙な感覚だった。

 

今まで自分が目指してきていたものが確実に現実に変わっていくその一瞬一瞬が夢のようで信じがたい事実だった。

 

「俺は本当にこれから歌手デビューするんだな…」

 

期待と同時に大きな不安を抱えて俺はデビューの日を迎える事になる。

 

 

52:1st北京語アルバム

 

03年1月。
半年かけてレコーディング、PV撮影と準備をしてきた台湾でのCDデビューの瞬間がついに訪れた。

 

台湾ではCDリリースの際に新人でもビッグアーティストでもほとんどの場合が記者会見を行う。

 

俺の場合も例外なくホテルを会場にして記者会見を行った。

 

記者会見には記者達の他にタレントの友人としてジミーや交友のあった台湾のビッグスター小Sが応援として駆け付けてくれた。

 

当然普通の新人のデビューとしてはその分目立つ事が出来たしこれら全てを演出してくれた関係者や友人達、ジミーや小Sには心から感謝したい。

 

更に記者会見中俺にビッグなサプライズが待っていた。

 

記者会見がもう間もなく終わりに差し掛かっていた時間帯、司会者が突然俺にサプライズがあるから会場の出入り口に注目しろと言う。

 

直後会場の照明が暗く落とされ出入り口にスポットが当たった。

 

そこで入場してきたのは何と日本にいるはずの父だった。

 

当然俺はこんな演出事前に聞いていなかったしまさか父が仕事を休んでまで俺の為に台湾に駆け付けてくれるなど考えてもいなかったから本当に驚いた。

 

しかも父は入場してくるなり息子の晴れ姿がよっぽど嬉しかったのか涙を流しながら壇上へ上がってきたのだ。

 

父は俺にとってずっと強い父親だったから俺の人生の中でも母親の葬儀の時しかその涙を俺に見せた事はなかった。

 

その父親が俺の為に涙を流している姿を見たら俺もそれまでの自分の通ってきた道のりや苦労、父親の支えや愛情が一気に溢れ返ってしまい思わずもらい泣きをしてしまいそうになってしまった。

 

その思いを必死でこらえステージの上で俺は父と向き合った。

 

当日の芸能ニュースにはその瞬間の映像が各テレビ局で流される事になる。

 

みんなが作り上げてくれた最高の記者会見で俺はこれ以上ない台湾でのCDデビューを果たしたのだ。

 

53:台湾でCD2万枚のセールス

 

記者会見を終えた翌日から俺のリリースしたアルバムのプロモーション活動が始まった。

 

厳密に言えばCDをリリースする少し前からテレビなどへの露出が始まりプロモーションはスタートしていたのだが、記者会見を行った事でその動きが本格化したのだ。

 

各テレビ媒体や雑誌、ラジオにも出たし当然そのプロモーションは全て中国語で行った。

 

中でも台湾ローカルテレビのバラエティ番組への番宣が多く、あまりバラエティ出演経験がなくしかも中国語が今よりも更に下手くそだった俺には司会者や他の出演者たちが何を喋っているのか会話のテンポや番組の展開が速過ぎて理解出来ない中での番組出演だった。

 

何とかして目立ってやろうという気持ちはあったが元来引っ込み思案な性格も手伝いいつも引け腰になってしまっていたし、プロモーションを繰り返してもバラエティではどうしても目立つ事が出来なかった。

 

それでも単純にメディアへの露出機会が多くなり同時にあちこちで俺のPV映像が流れて目にする事が出来るようになっていたから次第と知名度や認知度は上がっていき、街を歩いたり外食をしていてもサインを求められたり握手を求められる機会にも遭遇するようになる。

 

台湾の人たちは日本の文化や人を好きだという方が非常に多い事もあり、俺の事も比較的友好的に迎え入れてくれたような印象がある。

 

それに小松(北京語でシャオソンと発音する)の「小(シャオ)」という文字は日本語に直すと「~ちゃん」というような意味合いがあり中国人は年下や親しみのある相手に対して「小~」と呼ぶ事がよくあるから、「小松=松ちゃん」というようなニュアンスがもともとあるみたいでこの事も台湾現地の人に受け入れられやすかった1つの要因になったようだ。

 

お陰で俺は新人ながらにデビューアルバムの売り上げ累計枚数が2万枚のセールスを記録する事が出来たのだ。

 

 

54:初めてのサイン会

 

CDリリースをしてプロモーション活動がある程度進んでいくと今度は台湾各地でサイン会を行う事になった。

 

一番最初にサイン会を行ったのは台北市内にある西門町という繁華街でだった。

 

ここは台湾の原宿と呼ばれるような場所で多くの若者やファッション文化が集まり非常に賑やかでエネルギーに溢れた場所だ。

 

俺のサイン会があろうがなかろうがとにかく当日も多くの人でごった返していたわけだが渋谷の交差点の人込みにも似たそんな状況下の中俺は人の群れの中を先導する警備員に囲まれて白馬に乗りながら登場するという演出で現れたのだ。

 

当然俺の事を認知している人間に関わらず知らない人間でもこんな演出には目を引いたわけで直後の西門町は大騒ぎとなった。

 

そして馬から降りると用意されていた特設ステージへと上がり人で溢れた西門町を一望しながら3曲を歌う事になる。

 

 

人生で初めてこれだけ多くの人の前で歌った瞬間。

 

ステージの周りはこれ以上人が集まれないというほど多くの人が集まって俺の一挙手一投足に注目をしていた。

 

当然俺の事を知っている人間ばかりではなく全く知らないという人間もあそこには多くいたわけだ。

 

そんな環境で3曲を歌い終えると今までは味わった事のない高揚感と達成感に身震いがしばらく止まらなかった。

 

 

会場には俺のCDや写真、ポスターを持って俺の名を叫んだり歌を一緒に歌ってくれるファンもこの時には現れていた。

 

 

「サイン会に誰も来なかったらどうしよう・・・?」

 

 

そんな前日までの俺の不安は一気に吹き飛び逆にそれまでとは全く違う不安が俺を襲った。

 

ついこの間まで俺はいたって普通な生活を送っていた普通な人間だったはずなのに今のこの状況は何なのだろう?

 

自分の身の回りの変化が少し怖いぐらいだった。

 

 

 

55:台中や台南、高雄でも熱烈に歓迎された

 

台北の西門町でのサイン会を大成功に終えるとそれがそのまま当日の芸能ニュースとしてテレビ局で流された。

 

翌日には白馬に乗って登場したイベントのシーンが写真と一緒に各新聞にも大きく載る事になった。

 

台湾という小さな島ではこういったメディアの影響力は特に強く俺の華やかなデビューの様子は多くの人が知る事になっていく。

 

そうしたニュースを引き下げ今度は台湾各地でCD販促の為のサイン会を行う事が決まった。

 

 

まず目指したのはタピオカミルクティー発祥の街とも言われている台中。

 

台北からレコード会社が用意した車で向かった初めて訪れる事になった台中で俺を待っていたのは現地の人の熱い歓迎だった。

 

台中を訪れる前に取材で答えた「台湾で好きな食べ物(飲み物)はタピオカミルクティー」という俺のコメントを知った多くの現地のファンが「是非タピオカミルクティー発祥地台中の本場の味を味わってほしい」とサイン会にタピオカミルクティーを持参して訪れてくれた。

 

そうしてサイン会が終わる頃には飲みきれないほどのタピオカミルクティーが集まってしまったわけだ。

 

こうした熱烈な歓迎は続く台南や台湾最南端の街高雄でも受ける事になる。

 

芸能の中心である台北と違ってこういった地域では目当てのアーティストに会える機会はそう多くない事もあり台南や高雄での歓迎振りは凄かった。

 

特に高雄では多くの人が訪れたし現地の人の反応も非常に熱かった。

 

台北からスタートした一連のサイン会はこうして大成功の中終える事になる。

 

 

 

 

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