81:松葉杖からの解放

 

アキレス腱を切って一週間も過ぎると見た目ではっきりと分かるほど足が痩せ細った。

 

スポーツなどを特にするわけでなくて日常の中で普通に歩いているだけでも筋肉というものは鍛えられているようで、それをギブスで固定して全く使わなくなるとこんなにも一瞬であっさりと筋肉は落ちてしまうのだとその変貌ぶりに驚愕した。

 

ギブスをしている間もう一つ辛かったのはシャワーを浴びる事だった。

 

毎日ギブスの上にビニール袋を被せてギブスを湿らせないよう注意してシャワーを浴びたのだが、その作業は片足を濡らさないよう気を使うだけでなくギブスで固定され曲がらなくなった左足を伸ばしながらシャワーを浴びねばならず時間を要したし非常に不便だった。

 

そんな生活を始めてから一ヶ月ほど経った頃、医者から松葉杖の解禁を伝えられる。

 

一瞬ギブスをようやく外す事が出来るのだと勘違いしぬか喜びをするのだが松葉杖は不要になってもまだギブス脱却までは時間が必要なようだった。

 

松葉杖が必要なくなった代わりにその日からギブスのつま先部分にヒールのような役割を果たす板が取り付けられた。

 

その板を地面に着かせながらびっこして歩く練習が始まったのだ。

 

松葉杖で歩く作業は体力を使い本当にしんどかったしびっこしながら歩く作業も決して楽ではなかったが、それでも俺はこの時一歩前進したのだ。

 

不思議なものだが怪我が少しずつ治っていく経過は俺にとって希望のような感覚を味わえたし、自分の成長を感じられるようで生きている実感があった。

 

怪我をする事で俺の中で色々なものが一度リセットされその上に新たにアップデートを重ねていくような感覚の中俺は再び人生を歩き始めた。

 

よちよち歩きにも似た片足ずつびっこを引きながらの無様な痛々しい歩き方だったが、俺は確実に新たな一歩を踏み出し未来へと向かい始めたのだ。

 

 

82:ギブスからの解放とリハビリ

 

松葉杖が不要になるようになってから更に数週間が過ぎると今度はいよいよギブス本体を外す事になった。

 

ギブスを取ると正常な右足より一回りも二回りも痩せ細ってしまった左足が痛々しい姿で現れた。

医者の指示通りその場で軽く歩く練習をしてみたが二ヶ月もの間ギブスで固定していた事もあって少し歩く事自体に違和感があった。

 

 

膝は筋肉だけでなく柔軟性も同時に失っていたから上手く曲げる事すら出来ない。

 

どうやらギブスは外れたもののリハビリをしていかないと普通に歩行するまでには回復出来そうもない事がその時分かったのだ。

 

そうしてあの日から本格的なリハビリがスタートする。

 

ギブスが取れた当初は足を曲げようとすると痛みが走り伸ばしたままの状態で歩かないと歩く事さえ出来なかった。

 

でも少しずつ足を曲げる練習を繰り返したりなるべく歩く距離を意図的に増やすように生活習慣を変えていくと怪我から三ヶ月が過ぎる頃には自然と以前のように正常に近い感じで歩く事が出来るようになった。

 

まだ走ったり運動したりは出来なかったもののようやく普通に近い状態で歩けるように復活した。

 

あの時は毎日少しずつ回復していく様子が本当に嬉しかったし気持ちが自然と前向きになれた。

 

頭の中ではいつも

 

 

「あと一ヶ月もすればもしかしたら走れるようにまで回復するかもしれない。そうしたらまた運動も出来るようになるかな?」

 

とか次のステップに対してのイメージが尽きなかった。

 

同時に生活も苦しくなり始めていた時期だったしバイトを再開しないといけないなと考えるようにもなる。

 

ようやく今まで何気なく過ごす事の出来ていた「普通の生活」の光景が現実として目の前に広がり出してきた2007年3月。

 

俺の今送っている人生を作り出すきっかけになったある大きな出来事がそこには待っていた。

 

俺は突然中国に行く事になるのだ。

 

 

83:中国へ再び

 

アキレス腱の怪我をしている最中、俺に芸能生活最後だと思わせるある提案が所属事務所から上がった。

 

その当時事務所に出入りのあった若手ギタリストと二人でユニットを組んでデビューを目指さないか?いう話だった。

 

もう29歳だったしそのままズルズルやっていても未来はないと思っていたからユニットを組む事がチャンスに繋がるならばと俺自身もその話を熱望した。

 

それにアキレス腱を切って以来仕事や将来に対して妙に前向きだった事も手伝って俺は相手のギタリストとの顔合わせを事務所にセッティングしてもらう。

 

当時24歳だったギタリストの相棒はいわゆるイケメンギタリストで非常にモチベーションの高い若さとエネルギーに満ちたヤツだった。

 

二人は意気投合しまずは一緒に曲を作ってみようという事になり、パソコンを使ってデータを共有しながら作業を行い始めた。

 

詞は俺が担当し曲は彼が作る。

 

何度か曲を作ってはやり直し作ってはまたやり直すという作業を繰り返した。

 

そうして最終的に出来上がった曲を事務所に持っていって社長に聞かせた。

 

だが苦労して作った曲に対して社長はあまり良い反応を示さなかった。

 

短期間の中で出来る限りのエネルギーを注いで作り上げた曲には変わりなかったが音楽というものは本来そんなに簡単なものではない。

 

やはり人の胸を打つような音楽がそんなに簡単に出来てしまうようなら誰も苦労などしないのだ。

 

俺達はまたゼロから曲作りを再開しなければならなくなった。

 

そんな作業や時期と平行して事務所の上海人マネージャーがある中国のオーディション情報を俺のもとに持ってくる。

 

上海の東方衛視テレビが主催する「加油!好男児」というオーディション番組の話だった。

 

どうやらその時点から遡る事2~3年程前から中国ではテレビのオーディション番組が大人気のようだった。

 

 

「加油!好男児」も06年に大人気を博した国民的オーディション番組だったのだが、その番組に出演してみないか?とマネージャーは言うのだ。

 

「再度音楽に真剣に取り組み始めたこの時期に中国か…。」

 

中国に行くよりはどうせラストチャンスの思いで挑むのならば日本で最後は頑張ってみたい。

 

最初はそれが俺の本音だった。

 

だが上海人マネージャーの非常に強い熱意と説得に心を動かされ、まずは上海のテレビ局のプロデューサーに会うだけ会ってみようと気持ちを切り替え俺は上海へと渡った。

 

2007年3月末の出来事であった。

 

 

84:一泊二日でやってきた上海

 

マネージャーに連れられ俺は上海にやってきた。

 

「加油!好男児」というテレビのオーディション番組の面接に一泊二日でやってきたのだ。

 

上海テレビに着くとロビー脇にある喫茶店で番組担当者がやってくるのを待った。

 

しばらくすると若い女性プロデューサーが俺とマネージャーの前に現れた。

 

彼女は上海地区担当の番組プロデューサーだった。

 

「加油!好男児」は中国全国を対象にした巨大オーディションだったし各地区での予選が行われた後、その予選通過者のみがその後上海で行われる事になる全国大会への参加資格を得られるという内容のオーディション形式だった。

 

担当者が話すには仮に俺がオーディションに参加出来る事になった場合、全国大会が行われる上海地区での予選に参加をする事になるのだという。

 

その日はあくまで30分ほどの面接のみで番組担当者との話は終了する。

 

後日番組への参加の可否が伝えられるらしい。

 

そうしてオーディション番組への面接を受ける為に一泊二日でやってきた上海を俺は翌日後にした。

 

上海にまでやってきて受けた面接ではあったが正直俺は気持ちの中でまだ迷っていた。

 

オーディションに参加するという事は最長でオーディション期間中の三ヶ月間、日本を離れなければならない可能性がある。

 

当然すぐにオーディションを脱落してしまう可能性もあるわけだからその場合は一週間程度で日本へ帰国する可能性もある。

 

だがどうせ参加をするのならばモチベーションを極限まで高めて参加をしないのならば意味がなかった。

 

オーディションはそんな簡単には通らない事を俺は長い芸能生活からよく学んでいた。

 

それに日本で始動したばかりのユニットもまだギタリストと何も基礎を固められていない状態だったし、あれもこれも一度のタイミングでやってみるという行為は物事があまりに分散し過ぎていて、そんな状態に自分を持っていってしまう事自体に嫌悪感を抱いた。

 

出来ればオーディションには参加せず今は日本で音楽だけをやりたい…。

 

その思いを抱えた複雑な心境の中俺は日本に戻っていく。

 

「出来れば今回の面接はこのまま通りませんように…」

 

 

85:帰国後一週間で再び上海へ

 

一泊二日の上海渡航から日本へ戻るとすぐに上海テレビ側から日本の所属事務所に連絡が入る。

 

「翌週からスタートするオーディションに参加出来るよう手配するから一週間後にまた上海に戻ってきてほしい。」

 

その知らせはすぐに俺にも伝えられた。

 

 

俺は元々何でもかんでも器用にこなせるほど要領が良いわけじゃないし、性格的にも一つの事にのめり込んでいる時は他の事に集中出来ないような性分だから正直中国のオーディションに参加する事は気が進まなかった。

 

ギタリストのパートナーと音楽を一緒にやろうと決め始動し出したばかりの頃だったから気持ちの比重は先に始めていた音楽に傾いていた。

 

それに俺とパートナーの間には圧倒的に一緒に作り上げてきた時間や信頼関係、コミュニケーションなどが不足していた。

 

ここで俺が数ヶ月も仮に日本を離れる事になってしまったらそのままユニットの話が頓挫してしまうような気がした。

 

それにオーディションに参加する事は音楽的には何も成長をもたらす事には繋がらないだろう。

 

俺達が今最もやらなければならないのは作品を作ったり練習を重ねる事。そしてコミュニケーションを密に取って自分達のユニットとしての完成度を少しでも高め音楽に魂を注ぎ込んでいく事だ。

 

その気持ちを事務所に相談すると事務所からはそれでも中国に行くべきだと勧められた。

 

俺はとにかく悩む事になる。

 

 

悩んでも悩んでも気持ちの整理はつかなかったしどうしても頭を切り替えられなかった。

 

そんな中上海に行くべき日程は刻一刻と近付いてきた。

 

「もうこうなったら気持ちを切り替えよう。上海に行く以上これが最後のチャンスって気持ちでやるだけやってみよう。」

 

俺は事務所に上海へ再び向かう気持ちを伝えオーディションに参加する決意表明をする。

 

こうして俺はその後の自分の人生を180度変えるきっかけとなったテレビオーディション「加油!好男児」に参加する事になったのだ。

 

 

 

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