171:あの経験があったから今の俺がいる
日本での舞台公演を終えて上海に戻っても俺に過去のような慌ただしさは待っていなかった。
来る日も来る日も仕事もなく次の具体的な目標も見出す事が出来ない中途半端な生活を送っていた。
すでに日本の事務所とも契約は切れていたから俺は契約問題を一日も早く解決したかったし、何より活動の拠点を置いている中国の芸能事務所もまた新たに探さなければならなかった。
契約が切れてしまっていた事や、次の事務所の受け入れ先が見つからない事は当然仕事の入らない状態を意味したし、その期間が長くなればなるほど俺のタレントとしての存在感は薄れ、目に見えて周りの反応が薄くなっていくのを体感した。
俺のブログに対する書き込みやファンの声は次第に消えていったし、街を歩いていても以前ほどサインや写真を求められる機会が多くなくなった。
当時はよく「最近あまりテレビとかで見ないね。最近はどんな仕事してるの?」などとも言われたりした。
一般の方々にとってみれば何でもない他愛のないコミュニケーションのつもりで話しかけてきているのだろうけど、当時の俺の精神状態では例え笑顔で対応していてもそんな他愛のない言葉がひどく重く圧し掛かり、今にも崩れてしまいそうにさせられる一言に感じた。
生活は当然貯金のなし崩しで過ごしていたから仕事のない日々は本当に不安だったし、一体いつ見つかるとも分からない事務所の問題は俺を次第に憔悴させていった。
「俺は本当にまた以前のように復活出来るのだろうか・・・?もうこのまま自分の芸能人生は終わってしまうんじゃないだろうか・・・?」
焦りや不安ばかりが日増しに強くなる一方で時間だけは無情にもどんどんと過ぎていく事になる。
売れない20代の役者時代は当然それなりに苦労したし辛い毎日だったかもしれないが、それでも実家の親元にいた事や最悪就職すれば良いというような考え方もあったから状況的に幾分か楽なものだった。
だが09年のあの時期。
俺は人生で初めて最も過酷な精神状態で毎日を過ごす事になった。
苦労して中国という不慣れな土地でようやく自分の活路を切り開いてきたのに半年以上もの間、俺は仕事も収入も得ない生活に逆戻りしてしまっていた。
「せっかくこれだけ中国で頑張ってきたんだから今更中途半端な状態で帰りたくない!」
もしいつか日本に本格的に帰る事があるのなら、それは自分が成功した時。
俺は自分の中でそう決めていた。
だから夢半ばでは帰る決意が出来ずにいた。
172:KAI XIN GUOとの出会い
中国で仕事を失っていた期間。
当時自分を何とか保っていられたのには2つの大きな理由があったからだろう。
1つはレギュラーで抱えていた音楽物語の収録が月2回あったこと。
もう1つは自分の好きな居心地の良い場所を発見した事だ。
それが俺が今でもよく足を運ぶ中国茶とスイーツが楽しめる喫茶店「KAI XIN GUO(開心果)」との出会いだ。
KAI XIN GUOは昭化路という知らなければ訪れる事のない少し辺鄙な場所に所在していて、テラスもありボサノバが流れるゆったりとした空間を演出した素敵な喫茶店だ。
無添加の食材を使ったおいしい料理や上海ではトップクラスに部類するスイーツを提供してくれるなど、それだけで俺には通いたくなるのに十分な理由があった。
加えてコーヒーをあまり飲まない俺にとって中国茶が飲めるというお店のスタイルは普通の喫茶店に通うよりも魅力的で通いやすかった。
実はこのKAI XIN GUOとの出会いは08年にまで遡る。
音楽物語の撮影場所として一度だけお店を提供してもらった経緯があったのだ。
当時は仕事での来店だったし、音楽物語のMCに抜擢されたばかりの時期で撮影の事だけであたふたしてて自分に余裕がなかったからお店に対して特別な印象も持たないまま帰る事になったし、それ以降KAI XIN GUOを訪れる事もなかった。
でも09年の秋頃。
たまたまお昼過ぎに昭化路の近くを通り過ぎる機会があった。
食事も済ませていなかったから近くに喫茶店を探していたところ、ふと1年以上前にKAI XIN GUOを訪れた事を思い出したのだ。
そうして足を踏み入れたKAI XIN GUOは何だか物凄く居心地が良くて、ショーウィンドウから僅かに差し込んでくる陽の光は優しくて癒される感じがし、精神的に疲れきっていた俺にはたまらなく素敵なお店に映ったのだ。
「1年前と同じ場所を訪れたはずなのに気持ちの状態が違うだけでこんなにも見える世界というのは変わるものなんだな・・・」
その空間に癒されながら温かい中国茶とおいしいスイーツを食べていると不思議とまた明日も来ようと思う事が出来た。
そうして毎日通うようになっていったKAI XIN GUOはそれまでの人生でカフェ通いをする習慣の全くなかった俺の生活スタイルさえも変えていってしまったのだ。
KAI XIN GUOとの出会いは間違いなく俺の人生を大きく変えていくきっかけの1つになったのだ。
173:KAI XIN GUOと俺
KAI XIN GUOに通い出すようになり出した09年秋。
実は後から知った話なのだが今では大人気店のKAI XIN GUOは存続の危機にあった。
確かにいつ訪れてもお客さんは少なかったし、あれだけ素敵な雰囲気と空間のお店で料理もスイーツもおいしいのにランチタイムを過ぎた頃に出掛けるとあまりお客さんを見かけた事がなかった。
通い始めた当初はランチやディナーの時間帯は混むお店なのだと思っていたし、だからこそ俺もそういった時間を避けてなるべく人の少ない時間帯のお昼過ぎを狙って通っていた。
でもどうやらあの頃はどんな時間帯でもお客さんをなかなか集める事が出来ずお店を閉めようかと本気で考えていた時期だったらしい。
そんな状況とは知らず俺は毎日のようにお店に通う常連になっていったし、上海の喧騒や身の回りの全てのプレッシャーから逃げるようにKAI XIN GUOに行けば癒される自分を感じるようになっていった。
あの時期の俺は人に会えば仕事の状況を聞かれたりしてそれに対して答えるのも億劫だったし、出来るだけ親友以外とは会うのを避けていた。
だから俺以外誰もお客さんのいないKAI XIN GUOであの雰囲気と時間を独り占めしている感覚は本当に癒されたし、通えば通うほどKAI XIN GUOが好きになっていった。
同い年のオーナー店長のTAKAさんがまさか俺と全く同じ時期に自身にとって人生最大の悩みや不安の中過ごしていると知ったのはお互いが崖っぷちを通り越していった半年ぐらい先の事になるのだが、そんな似たような境遇をお互い感じ取っていたのか二人は段々と仲良くなっていく。
TAKAさんとはよくお互いの夢の話をしたし、苦しい状況ながらも夢を語り合っている時間は本当に楽しくて密度の濃い時間だった。
誠実で一生懸命な彼の姿勢はお店の素敵な雰囲気以上に何故か俺を惹き付けKAI XIN GUOへと足を運ばせた。
加えてKAI XIN GUOには楽器やステージがあり、週末ともなると音楽好きの仲間を集めてライブを催していた事が俺を更にお店にのめり込ませるきっかけとなっていく。
ある時駐在員バンドの日本人達がライブをやっている姿を見て非常に楽しそうに歌ったり演奏している姿を眩しく感じた事がある。
商業的な音楽に疲れ果てて音楽を止めてしまっていた俺に「元々俺はこういう風に何にも捉われない自由な音楽が好きだったんだ」って思い起こさせたのは間違いなくKAI XIN GUOやそこに集まったアマチュアバンドの皆さんだった。
俺はあの頃からまたいち音楽好きの音楽ファンとしてたまにKAI XIN GUOで他のお客さんがいない時にTAKAさんと一緒にギターを持って歌う自分を取り戻すようになっていく。
それはまさに20代前半の頃、香港の大スター、サモハンキンポーの二男で大親友のジミーと一緒にただがむしゃらに音楽をやっていたあの頃の自分と一緒だった。
「俺には今仕事も収入も次の明確な目標もないかもしれない。小松拓也はもう終わりだと思っている人もいるかもしれない。でも・・・、でも俺はもう一度前に向かって歩いていきたい!」
真っ暗闇な出口の見えない一本道の上で見つけたKAI XIN GUOという癒しの空間。
俺はここを起点にもう一度だけ歩いていくエネルギーを少しずつゆっくりだけど溜め続けていった。
174:GIGOR
KAI XIN GUOに通うようになり出した09年秋頃。
俺は毎日お店の中で何をしていたかというと、そのほとんどが中国語の勉強に時間を費やしていた。
自分の人生やその先の進路がどんな形になろうと中国語を更に磨く事は必ず役に立つだろう。
だからあの時期俺は徹底して中国語をまた基礎から勉強し直していたし、中国語を勉強する事で少しでも「俺は前に向かって歩いているんだ」という意識を保とうとした。
そんな生活を一体どれぐらい過ごしただろう?
ある日俺に1つのイメージが湧いてきた。
「どうせこのまま待っていても人生は変わらないかもしれない!芸能をもう一度復活させるのだってきっと容易ではないだろう。そもそもここは中国であって日本ではないし、誰を頼っていいかも分からない。だったらいっそ芸能活動だけではなくて他の道も模索してみた方がいいんじゃないか?」
それまで芸能活動を続ける事だけに執着していた俺は「生きるため」というあまりにシンプルな問題に直面した時、その時初めて芸能以外の活動も視野に入れてみようと頭を切り替える事が出来たのだ。
でもだからと言ってすぐには自分に何が出来るかが見つからなかった。
そもそも俺は芸能以外の仕事をした事がなかったし、その次の人生で自分がやりたい事もあの時は見つけていなかったのだ。
だからとにかく時間さえあれば自分に何が出来るか?そしてその仕事はちゃんと続けていく事が出来るのか?その答えを模索し続けた。
俺の性格上、好きでもない事を例えお金の為とは言え持続して続けていく事はきっと性に合わないだろう。
そうしてたどり着いた答えが日本のシルバーアクセサリーブランド「GIGOR」の中国代理店という考えだった。
元々縁があって知り合っていたGIGORの作品は俺も普段から愛用していたし、何より中国のファッションは近年物凄いスピードで変化していると言ってもまだまだ日本ほどの選択肢がないのが現状だ。
中国でモデルや芸能の仕事をする中で「もっと自分の着たい服を身に付けたいなぁ。」と思った事はそれまでも何度もあったし、そういった経験を重ねるたびいつか自分のアパレルブランドを中国で確率出来たらいいなんていう細やかな夢も抱えていた。
だからどうせ再起を図るならファッションというジャンルでチャレンジしてみよう!
そう思い俺は昔もらったGIGORの名刺を探しだし彼の日本のアトリエへと国際電話をかけたのだ。
175:人生の再スタート
GIGORに電話をかけると俺は彼に「是非中国でアクセサリーショップを出したいからGIGOR商品の販売の許可が欲しい」と頼み込んだ。
仮に難しい返答が返ってきても後のない俺は何とか食い下がるぐらいの覚悟で電話をしていたつもりだった。
だが意外にもその後彼から返ってきた返事は「いいよ!」の2つ返事だったし、それは俺をある意味拍子抜けさせてしまった。
でも次の瞬間俺は喜びが体中に駆け巡る感覚を覚えたし、生きる希望を彼から与えてもらった感謝を全身で受け止めていた。
そうして俺はGIGORから中国国内で彼の商品を販売する権利をもらう事になり、当初は小さなショップを構えて販売しようと模索していく事になる。
それからというもの毎日物件を歩いて探して回ったり、自分のショップを持って活躍しているオーナーの方々に会ってアドバイスや注意点を聞きまわったりもした。
更に時を同じくして日本の事務所との契約問題が解決する事になった。
結局日本の事務所が探してきてくれた事務所は北京に所在した事もあり、どうしても上海に残って一からやり直したかった俺はその後の中国での芸能活動を自分自身でマネージメントする権利を譲歩してもらう事になるのだ。
時は2009年11月初旬。
俺は中国にやってきて以来初めて本当の意味で一人になったのだ。
もう一切の後ろ盾も協力もない。これからは何をするにも自由。でも成功も失敗も全部が全部自分次第。
マネージメント事務所に所属していなければ芸能の仕事が成り立たない日本と違って、中国ではタレント個人がマネージメントもタレントもやるというケースが決して珍しくはない。
でもそれには当然豊富な人脈や太い様々なパイプがあってこそ成り立つのもまた事実だろう。
俺はフリーになったとは言え、当初はもう芸能を続けていく事を半ば諦めかけていた。
会社が支えになって活動していた時期でさえ本当に大変だったのに、それをタレント兼マネージャーとして人脈も経験も全くない俺が自分自身で仕事を取ってくる事なんかまずあり得ないだろうし、単発での仕事は仮に見込めたとしても長くは続けていけないだろう・・・。
だったら知名度がまだ残っているうちにお店を確立してGIGORで生計を立てられるようにしていかなくちゃ!
そう自分の将来にフォーカスを当て、俺は半年近くに及んだ長い沈黙の日々からようやく巣立つ事になったのだ。
当然不安やプレッシャーは計り知れないものがあったが、でもそれ以上に俺は向かうべき目標が出来て真っ暗闇の中から抜け出せる状況が整った事に全身が身震いするほどの喜びを感じた。
今思えば俺の本当の意味での人生のチャレンジはきっとあの頃から始まったのだと思う。
生まれて初めて「生きる」という事に執拗なまでのエネルギーと希望、そして深い感謝と喜びを感じて俺は再び歩き始めるのだ。
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