この記事の目次
36:事務所の後輩だった杉浦太陽の存在
ドラマ教習所物語で非常に良い役柄を演じながら次の仕事やチャンスに繋げる事の出来なかった俺はまたしばらく現場の仕事から遠ざかる。
ドラマ撮影後に手術をした半月板の傷も癒え始めるとその頃には音楽に没頭する事になっていた。
芝居はもしかしたら才能がないかもしれないと思い始めていたし、色々な人間から批評を受けて完全に演技には自信を失くしていた。
音楽は何だかそんな俺にとって新たなチャレンジだったし単純に歌ったり曲や詞を書いている時間が楽しかった。
でもそもそもあの頃の俺は何を目指していたのだろう・・・?
今振り返れば自分が本気でやろうとしている事が全くフォーカスされていなかった事に気付く。
俺は音楽に没頭する一方で役者の夢も諦めかけずにいた。
音楽自体努力をしていたといってもそれは様々なミュージシャン達と比べた場合、しょせん趣味程度の情熱しかなかったわけで本気でそれを生業にしたいと考えるならもっともっとやり込まなければならなかった。
役者の夢も終わらせていないならとにかく芝居が出来る環境を自分に与えるべきだった。
結局音楽も芝居も中途半端だったし、そんな俺に結果を残していける能力など備わるはずもなかった。
そうしてそんな最中次にやってきたチャンスは当時事務所の後輩だった杉浦太陽が主演を務めていたウルトラマンコスモスへの出演だった。
杉浦君は昔から明るく爽やかで対峙する人に元気を分け与えるそんな不思議なパワーを持っていたように思う。
人に対して何かを与える事が出来る能力を持った人達。
杉浦君にあって当時の俺になかったものはまさにそれかもしれない。
37:同じ事務所でもスター街道を走った杉浦君。走れなかったオレ
杉浦太陽君は俺より年下だったし事務所に入ってくるのも俺より遅かったから俺にしてみれば完全に後輩にあたった。
ウルトラマンコスモスへの出演以降彼はしっかりスター街道に乗っていったし、対照的に俺は相変わらず売れない役者を繰り返した。
当時は杉浦君が羨ましかったし同時に自分がひどく情けなく思えた。
嫉妬心や将来への不安で自分がどんどん醜い人間になっていってしまうのではないか怖くて現実を見て見ぬフリをして過ごした時期もある。
芸能界に顔を突っ込むようになりその時間の経過の中で色んな人間が自分の横を通り過ぎスターになっていったが同じ事務所の後輩にあたった杉浦君の活躍は何だか俺にとって現実を突きつけられているようで辛かった。
彼を各メディアで見る度にオレはどんどん彼と離されていくような遠い感覚に陥ったし、一方で彼の活躍はいつも俺の足元を照らして売れていない自分を再確認しなければならない時間を俺に与えた。
彼にあって俺になかったもの。
その最大の違いはおそらく周囲を巻き込む力があったかどうかだろう。
過去の俺には決定的に周囲の人間を自分に巻き込むパワーが足りなかった。
これは芸能人のような特殊な仕事には必要不可欠な要素だし、会社経営者や各分野のリーダー達にも共通する重要なコトだ。
人を引っ張る強い力を持っていて初めて他人は自分の魅力に吸い込まれてくれる。
でも俺は30歳を超えるまでそんなシンプルな事に気付く事もなく平凡な一人の人間として生きる道を選択し続けるのだ。
そんな生き方や歩き方じゃ自分が選んだ芸能界という世界での成功など待っているはずもなかったのに・・・。
38:人生の成功をずっと妨げた過度の趣味
俺が人生で成功しなかった大きな理由の1つに趣味のバドミントンがある。
中学、高校時代の青春の全てをかけたバドミントンは成人後も俺の大きな趣味の1つとして長年情熱と時間を注ぎ込む対象であった。
社会人チームでバドミントンのクラブ活動をするチームは山ほどあるしその大半が夜の7~10時前後を練習時間としている。
俺は多い時で週に4~5日間もバドミントンを練習していた事もある。
仕事も上手くいかない中で体を動かして他に没頭出来る趣味がある事は俺にとってリフレッシュになったしモチベーションにも繋がった。
練習すればするだけ上達したし結果にも繋がった。
大会では全国大会にも出場した事がある。
自分という人間を唯一自信を持ってアピール出来たバドミントンを続ける事はいつしか俺の生活上での心の支えにも変わっていった。
ただその趣味が俺の場合少し過剰だった。
毎日夜になると必ずバドミントンをやらないといけないような気分になってしまったしバドミントンが出来ない日は苦痛にすら感じるようになっていった。
当然仕事や人付き合いにもその影響を持ち込んだし、お金や生活にならないバドミントンへ俺がかけた情熱はかなり偏ったものだった。
仕事によって溜め込んだストレスを解消する目的が本来一番強かったバドミントンがいつしか自分にとって生活の中心になっていってしまっていたのだ。
本末転倒だった・・・。
過度の趣味は当然俺の人生の足かせとなった。
そしてそれに気付くのはアキレス腱を切る事になる20代後半になってからだった。
本当に馬鹿な話なのだが俺は怪我をする事で初めて自分の人生を足元から見直す努力をしたのだ。
39:香港人ケニーとの出会い
03年に俺は台湾に再び渡り全曲中国語のCDアルバムを出す事になる。
でもそこから遡ること6年。
1997年に俺は東京でその後台湾で活動する際に俺の事務所マネージャー兼社長を務める事となる香港人のケニーと知り合う事になる。
ケニーは青年実業家であり当時は雑誌のフリーライターなども務め香港や台湾を中心とした幅広い人脈と経験を持ったいわばビジネスのエリートだった。
だがエリートである事を全く鼻にかけない性格だし人に対して礼儀と優しさと尊重を持って接してくれる非常に紳士な人間で芸能の友達や仕事なども多く抱えていた事から自身でのプロダクション経営を当時から考えていた。
そもそもケニーとの出会いは仕事を通して知り合った中国人のRURUからの紹介だった。
後に太陽とシスコムーンとして活躍する事になるRURUとは彼女がグループとしてデビューする数年前から交流があった。
中国人の彼女は日本にいながらも当然在日している中国人だけでなく出張ベースで訪日する多くの中国系の友達を持っていたし、ケニーの事も彼が出張で日本を訪れた際に良い機会だから一緒に会おうと俺に引き合わせてくれたのだ。
あの時は一緒に居酒屋に行ってみんなで飲んだだけで特に仕事の話などもする事なく解散したのだが後日ケニーは香港から俺に国際電話をかけてきてくれる。
彼が聞いてくるのは俺と事務所との契約状況や残りの契約期間。
そして台湾でデビューしてみないか?という俺の意志や気持ち。
正直彼がどんな人間かもあの時は全く分かっていなかったしもっと細かい話をすれば彼が何をしている人間かさえも俺は知らなかった。
それに話が唐突過ぎて怪しささえ覚えた。
彼の人脈や力を使って台湾で俺に歌手デビューの道を用意してくれるというのだ。
日本でも売れない役者を続け、音楽だって何も仕事には結びつきそうもない中でどうして国境を飛び越えて台湾でデビューが出来るのだ???
俺は社交辞令だけ伝えその電話を切る事になる。
もしこれが本当に実現するまたとないチャンスなのだったら普通はこの時点でこの話は終わっていただろう・・・。
でも俺とケニーとの関係はこの後も続いていく事になるのだ。
40:人の繋がりはどこでどうなるか分からない
たったの一度新宿の居酒屋で友達のRURUやその他数人の友達と一緒に過ごした事のある香港人ケニー。
あの日俺とケニーは格別話が弾んで気が合ったというわけでもなければ仕事もプライベートも含め深い話などは一切しなかった。
でもそんな俺に何故か興味を持ってくれたケニーは後日日本を離れ香港に帰ってもしばしば俺に国際電話をかけてきてくれた。
台湾に渡って芸能デビューしないか?というのだ。
当然最初は怪しい変なヤツと思い相手にしていなかったがこの誘いは半年に一回ぐらいのペースで数年続く事になる。
流れる時間軸の中で俺自身日本で役者として成功しない事への焦りや年齢的にどんどん年取っていく自分への変化に日々のモチベーションも下がっていったし、ケニーが半年に一回電話をくれて誘ってくれる言葉が何だか段々嬉しくなっていった。
しかも普通に考えて人というのはよっぽどの気持ちや信念がなければここまでの情熱を相手に向けてくれないはずだ。
彼が初めて俺に電話をくれるようになってから5年ほど経った頃だったろうか?
俺は初めて彼に「本気で考えさせてくれ」とお願いする。
時を同じくしてちょうどその頃俺は所属事務所との契約満期を迎える。
将来や自分自身の生き方を方向修正するならここで環境を変えてみるのも悪くないかもしれない。
そう思ってまずはお世話になった所属事務所を離れる事を決意した。
その同年、俺は所属事務所を移籍し台湾へ本気で渡る為の準備に入った。
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