166:麗江古城

 

大理からバスに揺られて山道を走ること5時間。

 

俺を乗せたバスはついに雲南の有名な観光名所の1つ麗江にたどりついた。

 

下調べもせずに麗江を訪れた俺だったから一体何から観光して良いものか全く分からなかったし、当日麗江に到着した時間もすでに夜遅かったからその日は取りあえず宿を探す事に専念した。

 

何となく人が多く集まっていそうな方角へ歩いていってみると運良く麗江で最も有名で俺の印象にも一番強く刻み込まれる事になった世界文化遺産の麗江古城にたどり着く事が出来た。

 

夜の麗江古城は綺麗にライトアップされ、あまりにも賑やかでそれでいて華やかで、翌日昼間に再び見る事になる落ち着きはらった貫禄のある古城の雰囲気とは似ても似つかなかった。

 

麗江古城は大理の古城よりも更に敷地面積が広く、大理古城が碁盤の目のように内部の街が平行に形成されているのに対して、坂や丘などもありところどころに高低差がある作りになっていて、更には城の中を小川が流れていて非常に美しい情緒ある歴史の雄大さを感じずにはいられない場所であった。

 

麗江古城内部は非常に広くて数々の飲食店やお土産屋などがこれでもかというぐらい乱立していて、小川が流れているエリア一体はバーやクラブも多く、世界文化遺産にも関わらずその辺りからは大音量の音楽がガンガン流れていて、カラオケ大会を行っているお店やミュージシャンがライブを演奏しているお店などもあった。

 

その全てがカルチャーショックだったし、とにかくあまりにも華やかなその古城内での様子は何だか時代をタイムスリップして中国の古き時代にたどり着いてしまったかのような感覚さえ覚えたほどだった。

 

俺は古城の雰囲気がとにかく気に入ったしその晩は古城近くに泊まる事に決めた。

 

人に聞いて回るとどうやら古城内にも過去の雰囲気を残した宿や旅館が多く残っているらしく、俺は是非ともその雰囲気に浸りながら過ごしたいと思い現地の人間にお勧めされた一件の素敵な石造りの旅館に泊まる事になる。

 

俺の中国のルーツは小学校3年生の少年時代に家族でやって来た中国旅行がその始まりだったわけだが、あの時以来古き良き中国に触れる機会はその後の人生で経験していなかった。

 

その後の人生で俺が訪れる事になった中国はすっかり現代化され、大都市と化してしまっていたから幼少時代の面影を上海や北京では探す事が出来ずにいたからだ。

 

まさか映画撮影で訪れた雲南省でその面影に再び触れる事になるとは!

 

俺が心の中でずっと探し続けていたもう1つの中国の顔が雲南には確かにあったのだ。

 

 

 

 

167:麗江観光

 

麗江古城内にある非常に古風で雰囲気ある旅館で一泊を過ごした翌日。

 

俺は早起きをして麗江市内を観光して回る事にした。

 

次はいつ雲南に来れる事になるか分からないしとにかく沢山の名所を回って歩きたかった。

 

最初に訪れたのは少数民族の回族の村だった。

 

そこで回族の伝統芸能に触れたり雲南名産のプーアル茶を飲ませたもらった後、今度は乗馬を体験しに出掛けた。

 

乗馬と言っても普通の乗馬ではなく様々な料金体系から乗馬コースや時間などが細かく選べ、しかも山中の獣道を馬に乗って山登り出来てしまうのだ。

 

こんな経験もしかしたら二度と出来ないし俺は2時間半の乗馬コースを選びインストラクターに連れられて乗馬しながら山登りをする事になった。

 

最初は平地からスタートしたコースは20分もするとやがて山へと差し掛かり、馬は慣れっこのようにどんどんとインストラクターが乗るもう一匹の馬の後を追いかけながら俺を上へ上へと運んでくれた。

 

途中道が全く舗装されていない獣道を歩いたり、「こんな急な坂ちゃんと上れるのかな?」と心配になってしまう坂道さえも馬はグングンと進んでいく。

 

そうしてスタートしてから1時間も過ぎた頃、山中にある休憩所にたどり着いた。

 

馬をしばらく休ませた後、俺はそこで馬を全力疾走させて乗馬する体験も味わう事が出来る。

 

休憩所がある場所は草原の広がる場所だったからあの体験はまるで騎馬民族が大草原を駆ける姿を思わず自分にダブらせてしまい、過去には味わった事のない解放感と優越感を感じずにはいられなくなったのだ。

 

そうして全ての乗馬体験を終えた後、俺は最後にロープウェイで麗江を一望出来る名所へと出掛けその光景を目に焼き付けたあと麗江を後にして昆明へと帰っていった。

 

たった3日間の急ぎ足の雲南観光だったがそれでも俺には十分過ぎるほど刺激的で魅力的な旅行となった。

 

あの旅行での体験は間違いなく俺をより強く中国好きにさせたし、以前よりも更に中国に関心を示すきっかけになった。

 

願いが叶うならまた雲南へ行ってみたい。

 

今でもその思いは変わらない。

 

 

 

168:日本へ帰って舞台に出演する事に

 

雲南省での映画撮影を終え、上海に戻るとすぐ俺は今度は日本にしばらく帰国する事になった。

 

08年年末に日本に帰国して年末を過ごした際に舞台のオーディションを受けていたのだが、そのオーディションに見事合格し俺は晴れて舞台に出演する事になったのだ。

 

公演されるのは09年7月だったが初挑戦の殺陣の稽古も必要だった為、稽古期間は2か月に及び、俺は09年5月初頭。日本へと帰国した。

 

帰国すると間もなくして1週間に2日の割合で殺陣の稽古が始まった。

 

舞台で俺が演じる事になるのは空手の達人のヤクザという設定。

 

殺陣どころか格闘技にもチャレンジした事のない俺の動きは本当に様になっていなかったと思うし、きっと指導して下さった先生方は最初「こいつ大丈夫かなぁ?」と本気で心配したに違いない。

 

実際自分で動いている様子を鏡越しに覗いていても自分で何て不恰好なんだろう・・・と思わず嘆きたくなってしまうほど最初は殺陣が様になっていなかった。

 

正直時間が経てば経つほど自信がなくなっていったし、舞台公演日が近づくにつれ俺の不安は膨らんでいく事になる。

 

そうして6月に入ると今度は殺陣以外に芝居稽古がスタートする事になり始める。

 

そこで初めてほとんどのキャストと顔を合わせる事になり、個性面々な中で初日は簡単な本読みを兼ねた芝居の稽古が行われた。

 

更に日が経つと殺陣シーンとお芝居を連動させながらの稽古も行われるようになっていき、それはまさに俺にとってチャレンジの日々となっていった。

 

稽古を重ねる中で芝居の感覚はどんどんと掴んでいった俺なのだが、ひとたび殺陣が必要なシーンに差し掛かるとどうしても動きが縮こまってしまい上手く演じられなかった。

 

殺陣がこんなにも深くて難しいものだったなんて・・・。

 

初めて経験する事になった殺陣の勉強を俺は楽しみながらも苦しんで続ける毎日を強いられる。

 

だが俺の中国へ渡って以降の人生はいつだってチャレンジ続きの毎日だった事を思うと何だか不思議と妙な自信が湧いてきたし、変にモチベーションは上がっていく事になる。

 

 

169:舞台本番へ

 

殺陣の稽古に苦戦をしながらも徐々に舞台の公演本番日は近づいてきた。

 

俺の演じる役は劇中でも1,2を争う格闘家だったからどうしても殺陣のシーンで強い人間を演出出来ないと話にならなかった。

 

周りの殺陣経験者の先輩方の中で初心者の俺がたった1,2か月の短い期間でみんなに追いつけるはずなどは到底なかったが、それでもその中でベストを尽くさねばならなかったし、舞台の公演中は少なくても俺が一番強そうに見えるように取り組まなきゃいけなかった。

 

とにかく妥協はしたくなかったし先生方にコツを細かく教えてもらったり、どうしたら素人ながらも強そうに見せる事が出来るか色々とアイディアを出してもらう作業を繰り返した。

 

そうして少しずつではあったが自分に改善を重ね、いよいよ舞台の公演日はやって来たのだ。

 

本番が始まってしまえば後は稽古で重ねてきた自分を信じてやり切るしかなかったし、俺は劇場に足を踏み入れる前から「俺は世界で一番強い格闘家なんだ」と自分に何度も言い聞かせて舞台本番に臨む事になった。

 

もともと俺は本番に強い傾向がある。

 

本番に入ると完全に開き直れてしまう妙な癖が身についていてプレッシャーを感じるよりもその場を楽しむ気持ちの方が強く表れるらしい。

 

そんな状態で挑んだ2日間の舞台公演はあまりにもあっという間に一瞬で通り過ぎていってしまったし、何より本当に楽しんで芝居が出来た。

 

改めて芝居が好きな自分に気が付いたし芝居の楽しさや難しさにも直面した2か月間であった。

 

初めて体験する事になった殺陣も舞台本番では自分なりのベストを尽くせたし、せっかく勉強したのだから今後も勉強したいなと強く思えた。

 

頑張っているモチベーションの高い人間が多い環境下で過ごせた日本での2か月は本当に貴重な時間となったし、今後中国に再び戻っても高いモチベーションを維持しながら頑張っていこう!そう思うには十分な時間を俺はあの時日本で過ごせたわけだ。

 

だからまさかその思いが長くは続かない事になるなんて全くあの時は想像も出来なかったのだが・・・。

 

 

 

170:仕事のなくなってしまった日々

 

2009年7月初旬。

 

日本での舞台公演を終えると俺はそのまま上海へと帰っていく事になった。

 

舞台を終えたばかりだったし、1つの事をやり遂げた達成感や高揚感を感じる中でのリスタートであったから、非常に高いモチベーションの中戻った上海であったはずだった。

 

だがあの時の俺は実はある大きな問題に直面していた。

 

日本側の所属事務所との契約が切れようとしていたのだ。

 

当時の日本側の所属事務所との契約は日本のみならず全世界のマネージメント契約を委託していた。

 

俺の中国での芸能活動は実質中国側で提携をしているもう1つのローカル芸能事務所に委託をしていたわけだから要は単純に日中2つの事務所の存在を介す事で俺の仕事は成り立っていたわけだ。

 

日本側の事務所は中国側との業務提携を止めて他のローカル事務所を探す事を当時念頭に置いていたようで、俺と日本の事務所の契約期限が満期を迎えようとしていたタイミングでその新たな方向性を模索していた。

 

結果、俺の中国での次の受け入れ先が見つからない空白の時間が生まれてしまう事になるのだ。

 

日本の事務所とも一時期は契約が満期を迎え、法的には完全にフリーな状態で俺は一人中国で残る事となった。

 

その間俺のマネージメントを行う会社も人間もいなかったわけだからレギュラーでMCをしていた音楽物語以外は仕事もなくなってしまった。

 

互いの信頼関係の中俺は契約が切れても日本の事務所が新たな中国での受け入れ先を見つけてくれるのを待つしか出来なかったし、07年に上海で芸能活動を始めて以来初めて仕事のない日々を過ごす事になった。

 

3月に映画を撮ったのを最後に中国での活動はその後日本に戻って舞台に出演していた事も含め一切が止まってしまっていた。

 

オーディション以降、上海で常に話題や情報を発信し続けてこれていた俺だったがすでに国内の新たなニュースは数か月もの間ストップしてしまった。

 

「これだけ長い間情報を発信出来ない俺が次に新たな受け入れ先となる中国の所属事務所が見つかったとしてもまた以前のように上手くやっていけるんだろうか?」

 

「もしかしてこのまままた昔のように売れないタレントに逆戻りしてしまうのではないか?そんなのは絶対に嫌だ・・・。」

 

時間が経てば経つほどそれらの気持ちや不安は広がっていったし、毎日をやきもきしながら過ごす時間が増えていく。

 

同時にあの頃の俺は今にも崩れ落ちてしまいそうな極限の精神状態の中を生きていたし、一歩間違えば鬱病や精神病に侵されてしまっても何ら不思議ではない状態で毎日を過ごす事になるのだ。

 

 

 

 

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