11:高校でのバドミントン

 

中学を卒業し高校に入学しても俺が部活で選んだのはバドミントン部だった。

中学時代にすっかりはまったバドミントンは今でも俺のライフスタイルの1つになっているし、高校時代の俺もバドミントンにはとにかく夢中になった。

中学の頃とは違い高校のバドミントン部には形だけの顧問の先生しかいなかったし練習を面倒見てくれるコーチもいなかった。

バドミントン自体は好きだけど高校での部活は正直つまらない。

練習内容も本当にいい加減だったし同じレベルで競えるチームメイトもいなかった。

1年生の夏が過ぎると俺は次第に部活に通わなくなりバドミントンの練習を社会人のチームや恩師のいる中学校へと移していく事になる。

チームメイトから見たら本当にわがままなヤツだったに違いない。

でも本気で強くなりたいと思ってバドミントンに向き合っている俺には高校の部活は温度が合わなかった。

そうやって過ごした1年生が終わり高校2年生がスタートする。

その頃には当時幽霊部員と化し先輩達からも良く思われていなかった俺はもう部活には戻れないと考えていた。

そんな俺を再びバドミントン部に引き戻してくれた同級生の女の子には本当に今でも感謝をしている。

「私ももっと強くなりたい。中途半端にやるんじゃなくて厳しくてもいいから一度努力してみたい。先輩や同級生を私が口説くから小松君に戻ってきてもらいたいし部活を指揮してもらいたい。」

そう何度も俺を説得してくれた。

最初は今更戻れないと悩んだ俺も彼女の熱意に打たれ、個人としてではなくチームとして1から頑張ってみよう。

高2の4月。

俺はそう決心し再びバドミントン部に復帰した。

俺の人生は誰かにステージを用意してもらう事の繰り返しだ。

そうやって自分が活躍出来る機会と場を与えてもらっている。

誰もがそんな恵まれた人間ばかりじゃないだろうしそういった意味で周りにいる人間に支えられ続けてきた人生を送っている俺は本当に贅沢なんだと思う。

改めて色々な方々に感謝をしたい。

ありがとう。

 

 

12:渋谷でスカウト。芸能界へ足を踏み入れる

 

高2でバドミントン部に戻った俺は再びバドミントン一色の生活を送るようになる。

以降中学生の頃のようにバドミントンさえしていれば楽しい毎日が続いた。

中学校の部活と違ったのは高校にはコーチや指導してくれる先生がいなかったこと。

そして一番実績と経験のあった俺がチーム力強化の為に練習を率先して面倒みるようになったこと。

だからいち選手としての練習内容は決して豊富にこなせなかったし満足なトレーニングも出来なかったかもしれない。

中学時代に負けたことのない他校のライバル達にも追い抜かれ苦い思いも味わった。

でもそれでも後輩や自分を慕って俺の指導についてきてくれるチームメイトと過ごした時間は俺にとって今でも掛け替えのない思い出だ。

常に県のトップレベルに君臨し、ある種の栄光時代を過ごしてきた中学時代とは対象的に3年生の夏、俺はごく平凡な成績、平凡な選手として高校のバドミントン生活に終止符を打つ事になる。

部活を引退してすぐに訪れた高校生最後の夏休み。

部活ばかりに夢中になって同世代が遊ぶような遊びもろくに知らなかった高校時代の俺は夏休みに入ったばかりのある日、同級生に誘われて当時全く足を運ばなかった渋谷に買い物に出掛ける。

そこで俺の運命を180度変える出来事が起こるとは全く予想もせずに。

道玄坂付近を友達と話しながら歩いていると後ろからやってきた女性に声を掛けられ名刺を渡された。

「君芸能界とか興味ない?」

最初は騙されているのかと思いとにかくその場を離れようとした。

だが女性が非常に誠実そうだったことと興味があれば後日電話をくれと言ってその日は一旦帰してもらえたので後でゆっくり考える時間と余裕が生まれた。

お陰で父にも相談する事が出来たし一度面接だけでもしてもらおうと決心するのだ。

当時大学への進学しか頭になかった俺に嘘のように急きょやってきた芸能界という未知への挑戦。

ここから今までの人生とは全く違う俺の新しい人生がスタートする。

 

 

 

13:母と全く同じ名前の人から中国へ行けと言われた

 

渋谷で俺をスカウトしてくれたのはキャスティング会社を経営されている女性の方だった。

後日この方が仕事で関係のある取引先の中から5つの芸能事務所を紹介してくれる事になる。

名前を挙げれば誰もが知っている大手のプロダクションばかりだった。

一通り全ての会社に面接をしてもらい数社から声をかけてもらう事が出来たのだが、俺が選ぶのは最後に面接をした事務所になる。

この事務所の社長さんとの出会いは俺にとってそれだけ衝撃的な出会いだった。

お会いして名刺を頂いた時点で一度その名前にビックリする事になる。

他界した母と同じ「文子(ふみこ)」という名前の女性だった。

そこまで多くないこの名前の持ち主に出会ったのは母以外では初めての経験だったしこの時点で何か奇妙な縁を感じた。

それから会話が始まり社長は俺にいくつか質問を投げかけてきた。

名前や年齢など簡単な事を聞かれはしたがそれ以外のほとんどは世間話に近い内容だった気がする。

話し始めて2~3分経つと「一体いつ面接らしい面接は始まるのだろう?」と少し警戒しだしていた俺にとって予想だにしていなかった言葉を耳にする事になる。

「あんた高校卒業したら中国語勉強しに留学行っちゃいなさいよ。これからは中国の時代よ。」

本当にビックリした!!!

頭をハンマーで強く殴られたかのような大きな衝撃を受けた事を今でもはっきり覚えている。

2~3分という短い会話の中に「中国」というキーワードはどこにも含まれていなかった。

当然俺が子供の頃両親に連れられて中国旅行した事も生前母親が真剣に中国語を勉強していた事もこの時点では相手に伝えていない。

それなのにまだ会ったばかりの偶然にも母親と同じ名前を持った女性から唐突に「高校を卒業したら中国語を勉強しろ」と伝えられた。

95年だった当時は現在とは大きく違い、中国へ関心を持っている日本人はほとんどいなかったし、留学と言えば英語圏への留学ぐらいしか考えたことのない俺にとって中国語を勉強するという未来予想図は描いた事もない選択肢だった。

運命を生まれて初めて感じたあの日。

俺は母の意志を継いで中国語を勉強する事を決意する。

 

 

 

14:台湾へ留学

 

高3の夏にスカウトされ芸能事務所にお世話になるようになった俺。

翌年高校を卒業すると3月頭に台湾へ中国語留学を始める。

なぜ留学先が中国本土でなくて台湾だったかというと日本の事務所の社長が台湾に持っていたコネクションの中から俺のホームステイ受け入れ先を見つけてくれたからという単純な理由だった。

半年間で3回ホームステイ先を変えた俺だったが一番最初にホームステイしたのは台湾で芸能事務所を経営する社長の自宅。

その事務所には当時SOSというユニット名で活躍していた台湾の姉妹ビッグタレント「大S」、「小S」も所属していて台湾の事も中国語もよく分からなかった当時の俺の面倒をしばしば二人に見てもらう事が出来た。

今考えれば非常に贅沢な話である。(笑)

96年の台湾はインフレの真っただ中で街中道路工事や新しい建物の建設ラッシュだったし、その影響もあって空気や街並みは非常に汚かった。

例えば白い洗車したての車を路上に1時間も止めていたら埃が積もって黒ずんでしまう。そんな状態だった。

人も街もとにかく活気があってパワフル。

理屈じゃないエネルギーに溢れた街だったように記憶している。

テレビをつければ日本のドラマやバラエティ番組が日本語のまま放送されているチャンネルもあったりして日本のタレントや歌手のファンも非常に多かったし、その熱烈な親日加減には驚かされた。

生まれて初めて過ごす海外での生活。

台湾という街は俺の中国生活の第一歩としてはあまりにインパクトの強い場所だった。

高3の夏にスカウトされ芸能事務所にお世話になるようになった俺。

翌年高校を卒業すると3月頭に台湾へ中国語留学を始める。

なぜ留学先が中国本土でなくて台湾だったかというと日本の事務所の社長が台湾に持っていたコネクションの中から俺のホームステイ受け入れ先を見つけてくれたからという単純な理由だった。

半年間で3回ホームステイ先を変えた俺だったが一番最初にホームステイしたのは台湾で芸能事務所を経営する社長の自宅。

その事務所には当時SOSというユニット名で活躍していた台湾の姉妹ビッグタレント「大S」、「小S」も所属していて台湾の事も中国語もよく分からなかった当時の俺の面倒をしばしば二人に見てもらう事が出来た。

今考えれば非常に贅沢な話である。(笑)

96年の台湾はインフレの真っただ中で街中道路工事や新しい建物の建設ラッシュだったし、その影響もあって空気や街並みは非常に汚かった。

例えば白い洗車したての車を路上に1時間も止めていたら埃が積もって黒ずんでしまう。そんな状態だった。

人も街もとにかく活気があってパワフル。

理屈じゃないエネルギーに溢れた街だったように記憶している。

テレビをつければ日本のドラマやバラエティ番組が日本語のまま放送されているチャンネルもあったりして日本のタレントや歌手のファンも非常に多かったし、その熱烈な親日加減には驚かされた。

生まれて初めて過ごす海外での生活。

台湾という街は俺の中国生活の第一歩としてはあまりにインパクトの強い場所だった。

 

 

15:ホームステイ先2か所目はビビアン・スーの家

 

俺は台湾への留学時代、全部で3つの場所にホームステイさせてもらえた。

最初に住んだ芸能事務所の社長の自宅は台北市内から若干遠くて俺が当時通っていた語学学校へ通うのも不便だった為、学校が始まりだした4月に入ると市内に家を持っていたビビアンスーの実家にホームステイ先を移す事になる。

ビビアンは俺にとって事務所の先輩にあたり、彼女が日本で芸能活動をスタートさせたばかりの1年前。ちょうど俺が渋谷でスカウトされた少し後の時期ぐらいから交流が生まれるようになる。

ビビアンの実家にホームステイ出来たのは当然所属していた日本の芸能事務所が繋いでくれたご縁のお陰だったのだが、ビビアンの家族はとにかく団結力が強くて非常に温かい素敵な人達だった。

ビビアン本人は当時日本に住んでいたので台湾で仕事がある時に日本から戻ってくる以外は不在だったが、彼女の実家ではビビアンのお母さんやお姉さん、弟が俺に本当に良くしてくれた。

中でも1つしか年の離れていない弟は性格も優しく面倒見が良くて俺の世話をよくやいてくれた。

当時あまり社交的でなく引っ込み思案だった俺にとって言葉も上手く話せない海外で同年代の面倒見の良い友達が出来た事は本当に心強かったし、同時に少し不安に感じ始めていた台湾生活も楽しくなり始める。

彼とはよく一緒にゲームをしたりご飯を食べに行ったりしたし、当時まだほとんど喋れなかった北京語もこの時期に飛躍的に上達するようになる。

少し話は変わるが俺は中国語の発音が綺麗だとよく言われる。

中国語を習い始めるほとんどの日本人が相手に通じれば良いと発音をないがしろにする傾向があるが、振り返ってみると俺の場合ビビアンの弟や周りの人達に徹底的に発音を指摘され直された記憶がある。

日本語でいうところの「あいうえお」に当たる基礎をとにかく徹底的にやり込まされた。

基礎を繰り返される日々は正直しんどかったが今思うと言葉を習い始めの大事な時期に発音練習を繰り返した日々は本当に良い経験になった。

お陰で今の俺の中国語の基礎が出来たわけだから。

他人であるはずの俺を自分たちの家族のように迎えてくれ優しく温かく包んでくれたビビアンの家族たち。

今でも交流のある彼らと過ごせたあの日々は俺にとって掛け替えのない2か月だった。

 

 

 

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