6:兄きとの喧嘩の日々
俺より2つ年上の兄きは学生時代いわゆるヤンキーだった。
特に素行が悪かったのは兄きが高1~2年だった時期だろう。
その当時の兄きはよく俺に暴力をふるった。
家にいてお互いが顔を合わせるとほぼ毎日小突いて来たり頭をはたかれたりしたものだ。
そのほとんどがちょっかいを出す程度のつもりでやっていたのだろうが時には力が有り余って思いっきり叩いたりする事もあったし、日常茶飯事だったこの理不尽を受け止める俺のストレスはとにかく半端なかった。
当然幾度かに一遍は俺も反抗したりするのだが反抗空しく倍返しをお見舞いされ時にはそのまま大喧嘩に発展して力づくでねじ伏せられる。
結果理不尽と分かっていても力で叶わない相手からのこの理不尽を耐え続ける。
それが当時の俺が選択していたベストのチョイスだった。
父親は当時出張続きでほとんど家にはいなかったし、家を守っていた母にも当時の兄きは手に余っていた。
そんな母が俺に当時よく言い聞かせていた言葉がある。
「あんたは痛みに耐えられる人間になりなさい。」
何の根本解決にも繋がらないこの母の言葉を当時は無責任にしか感じていなかった俺だが、今思うとあの2,3年は現在の俺という人格を形成する上で非常に大きな意味を持つ時間になったのだと思う。
兄きの暴力に耐える日々と時を同じくして部活で毎日走りまくった日々。
俺は耐える時期が人生には必要な事をこの当時若くして学んでいたのかもしれない。
※今の俺と兄きは仲が良いので誤解をしないように!(笑)
7:努力が奇跡に変わったと確信した瞬間
家庭では兄きと喧嘩の日々。
学校ではバドミントン部の激しい走り込み。
俺の中学時代はほとんどが厳しい事に耐える日々の繰り返しだった。
バドミントン部はその練習の厳しさに耐えられず20人近く所属していた同級生の部員のうち半分ぐらいが辞めていってしまった。
その中何故俺は続ける事が出来たのか?
当時俺の頭の中にも部活を辞めるという迷いが数え切れないぐらい浮かんだ。
でも辞めてしまったら自分には何も残らなくなる。
漠然とそんな気がしていて結局辞められなかった。
そんな俺が3年生に進級した頃から急激に実力が伸び始め同時にバドミントンも厳しいはずの部活も楽しくて仕方なくなりだす。
厳しい練習や先生の指導のお陰で区や市の大会ではいつもトップの成績だったし、練習試合で県のトップクラスの強豪と対戦してもほとんど負け越す事がなくなった。
それまで無縁だった県大会でのタイトルももしかしたら掴めるかもしれない。
そう希望を持って臨んだ中学生最後の大会。
結果は神奈川県3位。
2位までしか切符を手にする事が出来ない関東大会。
俺はついに2年越しの夢だった関東大会出場に手が届かなかったのだ。
でも不思議と気持ちは晴れやかだったし俺は全てを出しきっての結果に満足がいっていた。
県の強豪達を倒して掴んだ3位という結果は俺からしてみたら奇跡に近かったかもしれない。
先生がいつも俺達に下を向かないように言い聞かせてきた「努力は奇跡を生む」という言葉。
それが体現された瞬間だったように思う。
本気で頑張って掴もうとした夢は時には届かない事もあるだろう。
でもその時の自分が立っている位置は夢の一歩手前なのかもしれない。
本気でただひたすらがむしゃらに走り続けた2年数か月。
俺は中学生という早い時期に夢を持つことの素晴らしさと夢に向かって努力する事の意味の大きさを実体験から学べた。
この事がなければ今の俺は間違いなくいない。
あの時代の俺を支えてくれた全ての人達に今改めて感謝したい。
8:母の突然過ぎた死
学校から母の運ばれた病院へ駆けつけると手術室の前の椅子へ通された。
最初に到着していたのは妹でその後に俺、兄き、出張先から急きょ戻った父が加わった。
どのぐらい長い沈黙と不安が続いただろう。
もう待つことすらプレッシャーで押し潰されそうになっていたとき、父だけが医師に呼ばれて手術室の前を離れた。
ドラマや映画の世界で何度も見てきた悲しい光景。
まさか自分の身に直接そんな災いが降りかかるなんて想像もしていなかった。
しばらくして戻ってきた父が沈黙のあと押し潰すような声で俺達に言った。
「もうお母さんダメかもしれない・・・」
直後医者が家族の前に再び現れ俺たちを母の元に案内すると言う。
数時間もの間会いたくて仕方なかった母との待望の対面の時間がようやく訪れた。
心電図を見るとまだ動いている。
でも怪我をした頭は髪の毛を剃られ顔や手は青白くなり意識も全くない。
俺の知っている強くて丈夫な母はもうどこにもいなかった。
その姿を見た瞬間抑え込んできた悲しみをもうどうにも止められなくてボロボロ涙がこぼれた。
そして母の手を強く握りながら奇跡が起こる事を信じ何度も「頑張れ!お母さん頑張れ!」と叫んだ。
妹や兄きも同じ事をした。
5分ぐらい経っただろうか・・・。
俺達の願いは虚しく母は帰らぬ人となった。
長い間打ち解けられずにギクシャクしていた母とようやく打ち解け始めてきていたところじゃないか。
兄きとの喧嘩も減ってきてようやく平穏な家族を見つけ始めたところなのに・・・。
俺は反抗ばかりでお母さんにまだ親孝行の1つもしてないよ。
まだまだ話したい事や一緒に見てみたいものなんかもいっぱいある。
どうして行っちゃうんだよ・・・。
「神様。お母さんの代わりに俺の命を持っていってください。俺は死んでもいいからどうかお母さんを生き返らせてください。」
呪文のように何度もそう心の中で唱えた。
俺は14歳の夏の終わりに「人ってこんなにも脆いものなんだ」という事と「母をこんなにも愛していたのだ」という事を知った。
今俺の傍にある全ての大事な人達やもの達は当たり前に存在しているわけじゃない!
だから俺は人やものを誰よりも愛し感謝する生き方を学んでいるのかもしれない。
母は自らの命をもって俺にとても大切なことを教えてくれたのだ。
9:父の存在の大きさと家族の団結
母がいなくなってから母の存在の大きさを家族全員が理解するまでそんなに時間はかからなかった。
それは精神的な事だけでなく生活や現実というリアルの生っぽい部分でも同じ事が言えた。
食事や洗濯、掃除に皿洗いなど今まで母に任せっきりだった家事は家族全員での分担制に次第に変わっていくが最初の頃は家事が意外にも大変な作業だという事を自分が体験する事で俺は初めて知る事になる。
中でも父は本当によく働いた。
仕事が終わると真っ直ぐに家に戻ってきて食事を俺たちの為に作ってくれ、他の家事も俺達子供の誰よりも率先してやってくれた。
あの当時は父にプライベートの時間なんて一切なかっただろう。
朝早くから仕事に出掛けて仕事が終わると真っ直ぐ帰宅し家事を率先してやる。
いなくなった母の代わりに全力全身でただただ俺達子供に尽くしてくれた。
それがどれだけ大変で重労働な事かは自分が大人になった今本当によく理解出来るし父には感謝してもしきれない。
母も本当に偉大だったが父も俺にとって最高に素晴らしい人だ。
今でもこの2人の子供として生まれてきた事を心から誇りに思うし最高の両親だと思っている。
母はよく人生や生き方を語りかける事で説いてくれたが、父はあまり多くを語らずいつも行動で色々な事を示してくれた。
2人に共通している素晴らしい事は自分が他人の為に何かをしてあげたとしてもそこに見返りや多くを求めない事だ。
一言で言ってしまえば無償の愛であり人間性なのだろう。
母を失くした後も父の注いでくれた無償の愛に包まれて俺達兄弟は自然に父の負担を少しでも軽くしたいと家事を手伝いはじめ、家族の絆は強く深くなっていく事になる。
10:高校でのバドミントン
中学を卒業し高校に入学しても俺が部活で選んだのはバドミントン部だった。
中学時代にすっかりはまったバドミントンは今でも俺のライフスタイルの1つになっているし、高校時代の俺もバドミントンにはとにかく夢中になった。
中学の頃とは違い高校のバドミントン部には形だけの顧問の先生しかいなかったし練習を面倒見てくれるコーチもいなかった。
バドミントン自体は好きだけど高校での部活は正直つまらない。
練習内容も本当にいい加減だったし同じレベルで競えるチームメイトもいなかった。
1年生の夏が過ぎると俺は次第に部活に通わなくなりバドミントンの練習を社会人のチームや恩師のいる中学校へと移していく事になる。
チームメイトから見たら本当にわがままなヤツだったに違いない。
でも本気で強くなりたいと思ってバドミントンに向き合っている俺には高校の部活は温度が合わなかった。
そうやって過ごした1年生が終わり高校2年生がスタートする。
その頃には当時幽霊部員と化し先輩達からも良く思われていなかった俺はもう部活には戻れないと考えていた。
そんな俺を再びバドミントン部に引き戻してくれた同級生の女の子には本当に今でも感謝をしている。
「私ももっと強くなりたい。中途半端にやるんじゃなくて厳しくてもいいから一度努力してみたい。先輩や同級生を私が口説くから小松君に戻ってきてもらいたいし部活を指揮してもらいたい。」
そう何度も俺を説得してくれた。
最初は今更戻れないと悩んだ俺も彼女の熱意に打たれ、個人としてではなくチームとして1から頑張ってみよう。
高2の4月。
俺はそう決心し再びバドミントン部に復帰した。
俺の人生は誰かにステージを用意してもらう事の繰り返しだ。
そうやって自分が活躍出来る機会と場を与えてもらっている。
誰もがそんな恵まれた人間ばかりじゃないだろうしそういった意味で周りにいる人間に支えられ続けてきた人生を送っている俺は本当に贅沢なんだと思う。
改めて色々な方々に感謝をしたい。
ありがとう。
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