この記事の目次
16:最後のホームステイ先となったジョイウォンの実家
ビビアン・スーの実家で過ごした2か月のホームステイを終えると俺は再び引っ越しをする事になる。
最後にホームステイさせてもらう事になったのは「チャイニーズゴーストストーリー」など数々の映画に出演し大女優としてアジア中で知られたジョイウォンの実家だった。
ホームステイさせてもらった3つの場所がいずれも大スターに関連のある凄い家ばかりという今考えてもこれ以上ない贅沢な留学生活だった。
ジョイ本人は市内の別のマンションに住んでいたのだがそれでも俺が彼女の実家にホームステイしている間は何度もジョイと会う事が出来た。
映画の中でしか見る事のなかったビッグスターが自分とこんな形で結びつくなんて考えた事もなかったし増してやプライベートで仲良くしてもらえるようになるなんて以前は想像すら出来なかった。
ジョイは俺を弟のように可愛がってくれたし俺にとって優しいお姉さんのような存在だった。
実家にいる彼女の母も俺をよく面倒見てくれたしビビアンの家族と同様、俺はここでも人の温かさと人情に触れながら2か月を過ごす事になる。
こうして俺の合計半年間に及ぶ台湾でのホームステイは経過していくのだ。
常に現地の人と接しながら過ごす事が出来たお陰で当時は周りの日本人留学生達よりも俺の言葉の上達は早かったし、同時に台湾人の文化や習慣を身近で知る事が出来た。
人にも環境にも本当に恵まれて過ごす事の出来た台湾での半年間。
こういう舞台を用意してくれた当時の日本の事務所社長、そして右も左も分からなかった俺を温かく優しく見守ってくれた台湾の人々には今改めて感謝したい。
17:人生初めての一人暮らし
事務所社長の自宅、ビビアンの実家、ジョイウォンの実家と合計約半年間のホームステイを終えた俺は安い物件を探し一人で住み始める事になる。
日本でもずっと実家暮らしだった俺が生まれて初めて経験する事になった一人暮らし。
そこは日本ではなくて台湾だった。
いわゆるルームシェアで3DKのアパートの1部屋を 間借りした環境でトイレやキッチンなども他の住人達と共有して使用した。
同じアパートに住んでいた他の住人との交流は基本的には一切なかったし、古いアパートだったから壁も薄くて隣の部屋の物音なども聞こえてくる環境だった。
結局この部屋には日本に帰る事になるまでの残り数か月を過ごす事になる。
日本の実家でも家事はよくやっていた俺にとって一人暮らしで家事を行うのは何の苦労も感じなかったし、半年間に及んだホームステイはいくら世話をしてくれた人たちがいい人ばかりだったとは言え、さすがに気を遣ったし遠慮もした。
だから一人暮らしをスタート出来た事は開放的だったし何だか今までと違う世界に足を踏み入れたような新鮮な感覚だった。
台湾時代、俺は基本的に日本人の友達と意図的にあまり交流しないようにしていたから友達はほとんど台湾人だったし語学の上達も早かったと思う。
語学習得を更に加速させたのはテレビだろう。
テレビをつければ日本語でのドラマやバラエティを毎日見る事が出来たし、台湾のテレビには中国語放送だろうと日本語放送だろうとほとんどの番組で中国語の字幕がついてくる。
中国語放送では会話が早すぎて聞き取れなかったり意味を理解出来なくても日本語放送ならば少なくても会話や展開の意味が理解出来るし、その上で中国語の字幕を見て新しい表現方法や単語を勉強する事が出来る。
その為当時の俺にとって最高のテキストとなったのがテレビだったわけだ。
一人暮らしになってテレビチャンネルの所有権も自分次第という環境になってからはとにかくテレビをよく見るようになる。
それは同時に一人暮らしの寂しさやホームシックから逃れる手段でもあった。
だが一人暮らしを始めて時間が経過するうちに俺はホームシックになっている自分に気付いていく事になる。
同時にそれは俺をボロボロの生活へと追い込んでいくのだ・・・。
18:ホームシックと引きこもり生活
台湾で一人暮らしを始めるようになると俺は間もなくホームシックになっていく。
人生初めての一人暮らし。
しかもそれは海外だったし頼れる人も周りにほとんどいない状況下での事。
18歳だった当時の俺にとって少しハードルが高かったのかもしれない。
極度の孤独や寂しさ、緊張感はやがて俺を堕落させていく。
部屋に引きこもりがちになり外へ出かけなくなったのだ。
下手くそな中国語で一生懸命周りの台湾人とコミュニケーションを取るのがしんどく感じ始めた時期でもある。
それに当時バブルだった台湾ではとにかくみんなお金の使い方や遊び方が半端なかった。
今の上海にも同じような事が言えるのだが街に活気がある時期というのは人も当然活発になる。
平日、週末関係なく夜な夜なクラブやカラオケ、バーに溜まっては大騒ぎするという友達が周りに多かったし、そこに顔を出さなければ疎外感を感じてしまう。
元々派手な遊びは好きな方じゃないし留学生の俺にとってお金の問題も深刻だった。
日本の事務所からの紹介でSOS(大S、小S)やビビアン、ジョイウォンをはじめとしたスター達との交流もあった俺だったが当然仕事をしている彼女達とは違い、日頃自由に使えるお金の幅は微々たるものだったし、華やかな芸能界の人達と一緒にいる事は背伸びをしている自分に気付いてしまう事でもあり辛かった。
そうして一人、また一人と交流がなくなり家にいる時間が長くなり始める。
同時に学校もサボり気味になっていく。
何だか全てが嫌になりかけていたのだ。
普段話す相手がいなくなっていく寂しさや中国語がなかなか上達しない事への焦りや苛立ち。
話す相手がいても母国語でない為、自分の本音や言いたい事を上手く表現出来ない。
そんな毎日の積み重ねに精神が病んでいくのが自分でも分かっていた。
寂しさを紛らわす為、日本語の歌や日本語で放送しているテレビを家に引きこもって一日中見たり聞いたりする時間が増えていく。
「何でこうなっちゃったんだろう?俺何やってんだろ・・・?」
一度狂った歯車はなかなか元に戻る事はなかった・・・。
19:台湾人の彼女が出来た
家に引きこもりになりがちになった台湾留学時代の後半期、当時付き合いの深かった台湾人の女の子と恋愛を始める事になった。
ホームシックや寂しさに耐えられなくなりかけていた時期に俺の面倒をよく見てくれた彼女と恋に落ちるまではそんなに時間を必要としなかった。
彼女が出来てからというもの寂しさからは解放され、成長の止まりかけていた中国語の上達も再び加速していく事になる。
だが相変わらず語学学校へは顔を出さなかった。
いや、出せなかった・・・。
サボる回数を重ねる毎にどんどんと学校へ行きにくくなってしまっていたからだ。
正直物凄い罪悪感を感じていた。
せめてもの罪滅ぼしにと彼女とのコミュニケーションは全て中国語で取ったし彼女に中国語を個人的に教えてもらう時間も作った。
だがそんな時間すら長くは続かない。
彼女と一番仲が良かった親友と彼女が大喧嘩をして疎遠になってしまった事がきっかけとなって俺は彼女を信じられなくなりだす。
喧嘩の理由は彼女の嘘が原因だったらしい。
後で知る事になるのだが彼女には虚言癖があったらしく誰彼構わず嘘をあたかも本当のように話していた。
その嘘は時には友達同士の信頼関係や絆にもヒビを入れるような性質の悪い嘘も含まれていた。
当初彼女を信じていただけでなく中国語の理解も足りていなかった俺にとって一番近くにいる彼女の言葉は絶対だった。
だから彼女をかばっているうちに他の仲良くしていた友達グループとは俺自身も疎遠になりだしてしまう。
時間が経つにつれ俺も彼女の嘘が生活の中のあちこちに散らばっている事に気付きだすのだがその時にはもう俺の周りに仲の良かった友達はほとんど残っていなかった。
彼女とも別れようと決意する・・・。
20:ボロボロで終えた台湾留学
台湾への留学時代。
当時付き合っていた台湾人の彼女と別れようと決意してから実際は別れるまでしばらく時間がかかってしまう。
彼女は簡単に別れを受け入れてくれなかった。
虚言壁を持っていた彼女。
最初は信じていた彼女の言葉も色々な事が明るみになるにつれ段々と信じられなくなっていった。
「一体どこからどこまでが本当の彼女なのか・・・?」
彼女と別れようと考えだしてから間もなくして俺は年末年始を日本で過ごす為、一度台湾を離れる事になる。
帰国していた期間は10日前後だったがその短い時間の中でも彼女からは毎日電話攻勢を受ける事になる。
しかもわざと決まって深夜の2時、3時ぐらいに電話をかけてきた。
万が一俺が居留守を使った場合でもこの時間なら言い訳をして電話に出ない事が出来ないのを彼女は知っていたからだ。
当時は携帯電話がまだ普及していなかったし固定電話の時代。
電話機の親機が置いてあるのは父の部屋だったから電話が鳴ると父は必ず真っ先に起こされてしまう羽目に遭う。
当然父には毎回電話が鳴る度に迷惑をかけたし、俺ももう電話をしないように何度も強く彼女には促した。
それでも毎回「身内に不幸があった」、「今日はこんな辛い事があった」などと泣きながら電話をかけ続けてきた。
俺の気を必死で引こうとしたのだろう。
でも度が過ぎた彼女の言動は俺の心を益々彼女から引き離すだけだった。
新しい年が始まり再び台湾に戻った俺だったが今度は日本の芸能事務所の社長に学校をサボっている事がバレてしまい、その時点で日本へ呼び戻されてしまう事が決まった。
ホームシックにやられ心を病み、次第に学校をサボりはじめ、寂しさの中片言の中国語でコミュニケーションを取りながら付き合い始めた彼女とは意外な形で溝が出来る。
彼女を信じてかばい続けていた時期に仲の良かった友達とも疎遠になり出し、気が付いてみたら俺は逃げるように台湾を後にしなければならない自分と向き合っていた。
これが初めて他人に明かす俺の台湾留学の結末だった。
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